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不燃で不毛な私たち

宇佐美りんさんの『推し、燃ゆ』が芥川賞を獲ってからしばらくして、作中の主人公が推しが燃えて「無事?」と連絡を受けたように、「これ今年の受賞作だって」と知り合いや家族からいくつか連絡があった。みんな私の推しが燃えたことを知っていた。まあなんか、推しが燃えた直後の話題作がこれなんて、運命っぽいから読んでみるかと私はAmazonのお世話になった。

私の推しも燃えた……わけではない。厳密に言えば、実は。作中の真幸くんほど、大してメディア露出があるわけでもない一端の舞台俳優である彼は、正直人としてとんでもないことをしでかしたけれども、燃えたと言いきれるほど話題にはならなかった。燃えるにも知名度がいる、とは偉大なる先人のブログも言っている。ただ界隈がちょっと荒れて、それだけだった。結果として誰も傷ついた人はいなかったし、少しのファンを失って彼は今ものうのうと、芸能人の顔をして生きている。

私は、この作品を開くとき「共感」を求めていたように思う。私も推しが燃えたから、あるある!となる感覚を求めていたはずだ。それはある意味既知の感情をもう一度思い出すだけの退屈な作業で、芥川賞受賞作が凡人に与える影響がそれだけであるはずがなかった。

そうは言うものの、実は途中まで私は、悪い方の意味で共感できなかった。生活の何もかもがうまくいかず、側から見ていたら明らかに推すのやめた方がいい男にしがみついている主人公を、私は半ば哀れんでいた。途中からちょっとイライラしていたかもしれない。そんな地雷男に注ぎ込む金と時間が無駄だと思うよ、とかアドバイスすらしたくなっていた。
私は推しから降りた。推すのをやめたと言うことだ。『推し、燃ゆ』では、センセーショナルに最初の一行から推しくんがやらかしたことを述べておきながら、その理由に関してはおそらく意図的に言及されないまま物語が進んでいく。私もその点に関しては全く同じだった。彼はなんでそんなことをしてしまったんだろう?と思う前に、理由なんてどうでもいいから、私は彼を許さないぞと言う事実だけが決まった。しかし、作中の主人公あかりは降りない。私は読みながら何回もツッコんだ。読んでいて降り時が見当たりすぎるのに、彼女は降りない。それはおそらく、推しがそれだけ魅力的だったからとかでは、残念ながらなくて、彼女に縋れるものが推しの存在しかなかったからだろうと思う。なんて哀れなんだろう、と私ははっきりそう思った。


しかし火葬された骨に見立てた綿棒を拾っていくラストシーンに、私は一種の羨望を覚えた。

彼女にとって唯一の救いである彼女の推しは燃えた。しっかり燃えた。燃焼して、煌く何か別の生命体から、しっかり人間になって、骨になった。
そこが私の、強烈に羨ましいと思う点である。私の推しは燃えなかった。世界中のほとんどの人が彼のしでかした「許せないこと」を知らないし、知っている私の中でさえも、すでに少し風化して何かモヤモヤとしたものが、ずっとうすぼんやりと燻っている感覚だけになっている。
烈火のように燃えさかればこそ、彼女は骨を拾えた。それは推しの燃えかすかもしれないし、彼女自身の背骨かもしれない。


要するに、私がこんな風にお気持ちゾンビになってジメジメした長文を書き散らしているのは、私の元推しくんが派手に燃えてくれなかったからだと言うわけだ。こんな風に責任転嫁していることも、粘着質で嫌になってくる。
私の元推しくんは、あいつは、真幸くんのように炎上による劇的な変化とか劣化を感じることもなく、これからもだらだらと大きくも小さくもない仕事を続けていくんだと思う。それを私は、誰か新しい推しを推しながら、横目に見る。絶対値で言えば「興味ない」よりはだいぶ大きい不燃物の視線を、ネチネチ向け続ける。
なんだかそれはゾッとしちゃうから、元推しくんにはもっと人気者になって、派手に私を火葬して欲しい。
私は破滅を願えない。

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