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ありきたりな話

私がこれから書くのは、どのブログにも書いてるようなありきたりすぎる発達障害の人生です。
私の母方の父と母の兄は日常会話も厳しいほどのASDで、母は当然のように機能不全家族で生まれました。
そんな母が選んだのは多動でうっかり「愛想良くて活動的」なADHDの父でした。ちなみに父の家系は全員ADHDです。
母は父の実家に嫁ぎました。
よって、ASD強め、ADHDも少し受け継いでいる私と妹はADHD毎日ドッタンバッタン大騒ぎの父方の大家族で育つことになります。

これは地獄の家系図。

物心つくまで
とても記憶力がよかったそうです。
二歳、三歳のことをよく覚えています。
特にものの配置。音。匂い。
親に引かれてしまうぐらには覚えているそう。
掃除機の音がとても苦手でした。

幼稚園〜小学校低学年
言葉の習得がとても早かったそうです。
幼稚園の先生に母が
「この子、理屈で私を説得するんです」
と泣きつかれたそうです。
この頃が私の人生のピークでした。
「しっかり者」と言われていました。
人よりなんでも習得するのが早かった。
ただ、運動だけはダメでした。
音を出す車もダメでした。
追いかけられているように感じました。
聴覚過敏と言語性優位バリバリだったのだ。たぶん。

小学校高学年
地獄の始まりです。発達障害あるあるですね。他の子供達は性の目覚めに発達しているのに、私は子供じみた正義感から抜け出せない。
この年代の子供にとって大人は敵なのに子供同士のトラブルが起こると「大人に相談しよう」などという始末です。
どうしてグループをつくるのか
どうして体毛を剃らなくてはいけないのか
どうしてオシャレをしなくてはいけないのか
そもそもどういう格好がオシャレなのか
(友達に尋ねてみるも、人によって違います)
わかりませんでした。
この頃、溢れんばかりの疑問と初潮のストレスで強迫性障害の症状が出ていました。強いこだわりのはじまりであり、周りから不気味がられ、こだわりを押し殺す癖もつきました。
数字や布団のシワ、ルーチンにしたい言葉など、こだわりが酷かった。
父に「お前はおかしい」と言われて自分でもわかっているのにどうしようもなくて泣きじゃくったこと今でも思い出せます。

中学
早速いじめられました。
スクールカーストの高い男子とは知らずぶすっとしてる彼がプリントを出さなかったので
「え、出して」と言ってしまい
(普通ならそういう男子には近寄らないですよね)
彼の「毛布キモい」「眉毛太いニキビヤバすぎ」
(これも普通なら早めに処理するはず)
という鶴の一声で私の机は掃除の時バイ菌扱いされ運ばれなくなり自転車で帰ってる時物投げられたりしました。
私の認識も狂っていて
「あの子私のこと嫌いなんやな」と
特にいじめられてるとも当時は思いませんでした。
ややこしいことに私の小学校からの友達が派手な子でそのいじめっ子とつきあったりスクールカーストが高くなり(これも私にはぴんとこなかった)「いじり」は悪化しました。
「なんであんたってそうなん?」
と笑われながら不気味がられながら何度も尋ねられました。うまく説明できなかったけど、見かねて眉毛を剃ってもらったりファッションのアドバイスをもらいました。

ちなみにこのころのしんどさから、あっこゴリラさんがルッキズムに真っ正面から対抗する曲が今とっても大好きです。今私の眉毛は眉マスカラで茶色にしてるけど、繋げちゃおっかな、いつか。エビバディ!ボー!

https://music.apple.com/jp/album/%E3%82%A8%E3%83%93%E3%83%90%E3%83%87%E3%82%A3bo/1440698258?i=1440698383

はい。
彼らの言う通り高いプーマのジャージを買ってもらったのに着たら着たで笑われオシャレって難しいなと思いました。同じ服を着ても似合う似合わないがあるのですね。今思うと当たり前だけれども。今の私はメイク大好きおばさん。
その子のつながりで地域のダンスサークルに入りました。
もともと音楽が好きだったので活動そのものは好きでしたがハイコンテクストな集まりで馴染めませんでした。
私は動作性が低いのでまず振り付けが覚えられないし、見て覚える、周りを察して動くということができません。
飲み込みの遅い私は本番のスケジュールについていけずASD丸出しの人を不快にさせる質問を繰り返し、派閥がありいじめもあるグループなのに本番が終わるたびに「私たちの絆」と言って泣く神経も分からず。
必死に感動しているフリをしていました。
忘れ物をした時にリーダーに謝りに行くと「お前もっと謝ることあるやろ!」
と怒鳴られました。
きっとリーダーは「普通の子ならできることが毛布にはなんでできないの、この子は何でこんなに変わってるの」という鬱憤が溜まっていたんだろうなあ。

家族ぐるみで衣装や送り迎えが必要だったので発達障害オーラというか、変わってる私の家族を見て
「お前の一族全員嫌い」とも言われました
めちゃくちゃ失礼な話だけど言わんとしていることはわかってしまうんですよね。なんか変な家族だったんでしょう。

一方学業の方では恵まれ地域で一番の高校に受かりました
国語の偏差値のみ78でした。
言語性優位とはここから来ているのかもしれません。

https://www.amazon.co.jp/dp/4309408419/ref=cm_sw_r_cp_awdb_imm_c_iUHxFbQ8JR6K2

綿屋りささんや梨木香歩さん読んでました。
「寂しさは鳴る」って冒頭文は優勝してるな。

高校
中学と比べるとはるかにのびのびとできました。軽音楽部にも入りました、友達もできました。
偏差値の高い学校に行って
「プライド」という新しい概念を知りました。
これは中学のシンプルな「スクールカースト」より難しかったです。
自分に厳しく他人にも厳しい。
イベントだってオシャレだって学業だって恋愛だって皆真剣。競争意識も激しい。皆格好よかったけど、うっかり悪気なく誰かのプライドを傷つけてしまったり褒めるべきポイントを逃してしまったら信用を失うので、ここでもコミニュケーションはやっぱり悩みました。
「青春」もしなくてはいけません。
青春の定義とはなんぞや?迷走する私。
好きな音楽聴きながら一人で帰ってましたがあれは私なりの青春だァ!

さらに私を悩ませたのが、バンド界隈。バンドマンウーマン界隈の承認欲求の難しさ。「カリスマ」とおだてなくてはいけない。
単なる音楽への尊敬ではダメなのです、異性としての憧れや人格の神聖化も必要とされます。
(これは単なる縦社会よりも難しいです)
さらに私を悩ますのが音楽をするならオシャレでいなくては、ということ。
でましたオシャレ!ギャルのオシャレはシンプルですが音楽界隈のオシャレはハイレベルです。早々に挫折しました。

高校時代から急な眠気、倦怠感に襲われました。軽音部なんかほぼ帰宅部なのに帰ったら昏睡する始末。学校でも寝ていました。
本当にクズだな、と自分では思っていました。だってみんな何事にも真剣で自分のプライドに見合うように頑張っているんだもん。

そのころ家庭では、父が職を失い母が病みました。父は毎日昼間から酒を飲んで暴言を吐くようになりました。母は体調を崩して寝込んでしまった。
そこで飲食アルバイトを始めますが、もちろん仕事は見て覚えて怖い先輩を気配で察知し対応を変えたり仕事内容も変わる日々。
毎日無言のため息とマルチタスクのできなさに叱責を受けました。
お客様の前で泣いたこともありました。
あえて休憩中私のレジに来て
先輩二人で一挙一動呆れ笑い
(その文化は十年経った今でも続いていました。新人さんそこまじでダメな職場だから早く辞めなよ)
初めてバイトを辞めました。
学校公認の年賀状バイトも行きましたが相変わらず人との距離感がわからず妻子持ちの男性に迫られたりなどしました。まさか恋愛対象として見られているのも気づかなかったし妻から訴えられそうになりました。
色々ありましたが
私は人間関係も仕事も女子としても何やってもダメだな。努力もできない。
死にたいなと中学高校ぐらいずっと思っていましたね。

私を救ったのはいつも音楽でした
音楽はなぜか私のことを知っていました
死にたい私のことを。

https://music.apple.com/jp/album/17/1385305361?i=1385305388

17歳、たいへんだったな。

音楽にハマっていくうちに、音楽や文学を通じて友達ができるようになります。
私の感想ってすごく細かかったらしく(つまりオタクだったんですが)サブカルチャーを好む友達(特に幼なじみ兼親友)が映画や漫画や音楽について語り合ってくれました。
頭の中でずっと言葉の濁流がある私にとって
好きなものについて文章を書くことは今でも快感です。

それでも、私は毎日疲れていて、「死にたい」とぼんやり思っていました。
高校生活が終わったら社会に出たらごまかせない欠点があると薄々分かっていました。それが発達障害とは当時気付いてなかったんですが。
そんなリミットを感じつつ日々を過ごしていました。
音楽や友達つながりで高3になって初めて男友達ができました。
これは機能不全家族育ちあるあるだと思うのですが、私はいつも男性に父の姿を重ねていました。
仕事を失っても遊んでいる、大きな声を出せば全て解決すると思っている、母は父の実家に嫁いだこともあり、大変な亭主関白な家庭でした。
母はそれでも言います、「私の父よりマシよ」。男性とは理不尽な権力の象徴でした。
そんな男性ばかりじゃないんだと気付けたのは高校に行って不器用ながらも交友関係を続けてよかったところだと思っています。

高三の冬。進路を巡って初めて父と大げんかをしました。
父は近所の教育大を進めましたが私は電車で二時間半かかる私大に行こうとしていました
「田舎を出ていろんな世界が見たい」と言った私に
「お前は偏差値で人を判断するのか!」
「家の家事すらできないくせに」
と父は怒鳴りました。
(母からもなぜ勉強はできるのに家事はできないんだ定期はなくすんだと呆れられていました)
私はシングルフォーカスで不注意がひどくセンター試験の受験票までなくしたこともあり慢性疲労で帰ってきたら倒れていて家事もしない娘でした。
嫁に行けるのか常々心配されていました。
父自身が多動で勉強が苦手だったので、勉強という形で進路を選ぶ私が妬ましかった、という本音もあったそう。(これは7年後に言われることになります)
私は決して偏差値で人を差別するつもりはないこと不注意は自覚していることを話し、
結局親の反対を押し切って奨学金で私立大学に行くことに決めました。

大学
長年悩んでいたオシャレと同い年の人間関係(男女含む)は、そこまで困らなくなりました。
オシャレは都会にある無難なブランドで買って周りの人と同じ無難なメイクをすればいい。
同い年の人間関係はそれぞれの性格や言動を一人一冊の本のように(私の主観で)長期記憶で覚えていて(正しかったのかわかりませんが)ASDの特性上派閥や上下関係がわからず良くも悪くも平等に接するので話しやすい友達も後輩もできました。引かれたことも不思議がられたことも、きっと困らせたこともあったけど、マンモス大学という場所は皆忙しくて交流関係も広いから、失敗も流してもらった気がします。

https://music.apple.com/jp/album/the-best-of-oscar-peterson/329483614

それはそれはコピーしたし何回も聞いてたオスカーピーターソン。ジャズマンで一番好きかもしれない。メロが可愛いしキャッチーなのよ。

音楽のサークルに入りましたが先輩との関係は今までと同じで困らせてしまいました。また「体育会系」の上下関係をわかっていないと指摘されました。
一番困ったのがやはりアルバイトです。
どこのアルバイトやNPO活動に行っても
「お勉強しかできない世間知らず
人格を叩きなおさなくてはいけない
叱られたことがないだろうと言われる
(叱られたことしか逆にない)
細かいミスを全て指摘される
箱入り娘なのかと笑われる」
不思議なぐらい同じお叱りを受けました。
メモを取って見直しても一つのことをすると一つ抜けます。
私が誰かを鬱にしたらどうしよう?
それすら思っていました。
二時間半の通学、普通の授業に加えて教職課程を履修、定期代のためにアルバイトを掛け持ち、サークル活動(飲み会は3回生まで断れない)。家の事情や何かが足りない自分を鍛えるために選んだ道だけど、ずっと地元にいるよりは世間を知れましたが慢性的な体調不良は悪化しました。
眠気と倦怠感に加えて、貧血、手の震え、軽い過呼吸が起こり基本的にフラフラしていました。
でもそんなもんだろうと思って放っておきました。私は人より頑張らなくちゃね。

教職課程で学んで、なんとなく発達障害のケはあるなと思っていたので(今思えば大学時代に相談しておけばよかったのです)仕事は慎重に決めました。
ルーチン作業が多く経験が活かされる初めて褒められた塾の講師の記憶となにより生きにくい子供達の味方をしたいと思い教員採用試験を受けました。

社会人
自分でも予想していなかったのですが他県に一発合格してしまいました。
勤務校はとっても田舎!はじめての一人暮らしです。教師の仕事は月に一日ほどしか休みがなく7時出勤、21時退社です。
アルハラセクハラは当たり前。職場の飲み会で私は箸をつけたことがありません。
ひたすらにお酒を注ぎ注がれたビールはおいてはいけません。イッキあるのみ。
それでも仕事は楽しかった。生徒は可愛かったです。
がしかし、職場では有名なパワハラ上司の部下になってしまい
「お勉強しかできない世間知らず
人格を叩きなおさなくてはいけない
叱られたことがないだろうと言われる
細かいミスを全て指摘される
箱入り娘なのかと笑われる」のコンボ。
で、出ました。百万回言われたな。
そしてその内容で毎日3時間はお説教されるので他の仕事ができない。残業。
いくらいろんなバイトをして先輩への接し方や縦社会のルールを学んで社会人マナー本を叩き込んだつもりでも、私は学生時代から全く成長していないのでした。
それに加えて
「人間として必要な感情が欠けている」
(職場の暗黙の了解や明記も説明もされてない職員集合がわからず自閉傾向があるのではないか、と言われました)
「あんな下手な授業生徒を見捨てている」
「社会人として最底レベル、なぜ採用されたのかわからない」「税金泥棒」
お金がなくて社会人になってから仕事をしながら通った教習所では
「あなた教師なんですよね?教えた事できなかったら嫌ですよね?それぐらい分かりますよね?お勉強しかできなくて命の大切さはわからないんですか?あと教師が筆記一発合格できなかったら問題ですよね」
と隣で言われ続け(ただでさえマルチタスクできないのに)
"親切心から"私の運転の下手さを職場にバラされて(田舎は全員知り合いです)またパワハラ上司に怒られました。
私は必死でした。
何度も言いますが生徒はとても可愛かった。
気がついたら9月、親友の誕生日まで私は誰とも連絡を取っていませんでした。
10月ごろから不注意が更に悪化しました。何をやってもミスをしました。ますます叱られました。
気がついたらメンタルクリニックにいて薬をもらって、校長室に泣きながら飛び込んで休みたいですと言っていました。
正気じゃなかった。
「男女平等に厳しく苦労させることが上司の責務」と言って毎日説教していたパワハラ上司が病気を管理職に相談した私を二人きりで食事に連れて行ったり、ラブホの前でウインカーを出して笑っていても、セクハラだとも気づかなかった。もう上司の信者になっていました。逆らったら壊れる。「ほらな、病気は嘘やろう」と言われたら嘘かもと思っていました。やめたくない。諦めたくない。生徒に運が悪かったと思わせたくない。生徒とした約束も破りたくない。でも体が動かない。
私は
「答え合わせができた。バレたな」
「私はダメ人間だ、あたりまえのことができない
今までの努力は全て間違っていた」
「死のう」
と思いました。
仕事を辞める日の晩が一番苦痛でした。
仕事は大好きでした 愛していました
それから私は「死ななくては」と中学ぐらいからのぼんやりした希死念慮にしっかり後ろ盾がついて
「死にたい、ああ死にたい」
「こんな自分が生きているのは恐ろしい」
と思い、適応障害で実家に帰っても休むことができなくて、バイトを初めては悪化して、深刻な鬱になってしまいました。
根性論や家父長制の古い考えが嫌いで家庭で私を庇ってくれたのに私が自分の考えを押し付けてしまったばっかりに妹とも絶縁してしまいましたし、高圧的な父とはやはりうまくいっていません。
でも今は、働くことを諦めて、なんとか。なんとかやっています。
体を壊して三年、やっと気楽になっている。

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