『100分de名著「トーマス・マン 魔の山」』

もとより、この企画がなければ、僕はほぼ間違いなくこの小説を読まずに終わっただろう。
その意味で、この番組には感謝している。
また、本書で小黒先生が展開する読みにも、深読みの楽しさが溢れている。
ハンスを使徒ヨハネとみる読みも、「七」をめぐる読みも、目から鱗の読みだった。

だが、しかしだ。

《君は予感に満たされながら「陣地とり」をすることで死と肉体の放蕩の中から愛の夢が生まれる瞬間を経験した。このように世界を覆う死の祝祭からも、雨模様の夜空をいたるところで焦がす熱病のようなひどい劫火からも、いつか愛が立ち現れるのであろうか。》

と、『魔の山』のラストを引用して、小黒氏は書く。

【最初に兵士として生への奉仕に身を捧げたのはヨーアヒムでした。そのヨーアヒムに代わり、生への奉仕を忘れた「主人公(Held)」が、その不履行を詫びた上で、いまや戦場にいる。

ー中略ー

ヨーアヒムが進んだのは「まっすぐな、まともな道」です。彼が実践した生への奉仕は、一般的な意味でのナショナリズム的行動だと言えます。国のために自分が兵士として戦うのだ。(略)
そんな軍人ヨーアヒムの代わりに、今度は文民であるハンス・カストルプが戦場に行きます。彼がたどったのは「厄介な道」です。
まず、死に深く共感し、そこから生への奉仕に目覚め、しかしそれを実践するまでには時間がかかり、ようやく行動に出た。】

小黒氏は、ハンスが山を下りて戦場に行ったことを「生への奉仕」と呼んでいるが(僕には「死への奉仕」としか思えない。)、これはどちらかと言えばナフタが言いそうな言葉であり、ドン・プーチンが聞けば泣いて喜ぶのではないか?
小黒氏の解釈が正しいとすれば、『魔の山』を1924年に発表したトーマス・マンは、ナチス登場の露払いをした者と言わざるを得ないのではないか?
逆に言えば、そうした読みもあり得るということが原因で、ノーベル委員会は『ブデンブローク家の人々』をノーベル賞の受賞理由としたのではないだろうか?

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