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愛は祈りで欲望とは別だとしても

わたしはまた感情を無視するのに成功した。こうやって嫌なことをどんどん無視してころして考えないようにしてたら、自分の本当の気持ちがみえなくなってしまいそう。
嫌なことは嫌だって言えたほうが絶対いい。わたし、他人にはそう言うのに。自分のこととなるとびっくりするくらいうまくできなくなる。

これって正しいのだろうか。器用に生きられてるってことなのかな。そんな気がしない。
だってきみはずっと、優しいフリして「だって事実じゃん」とか言いながら全然優しくないことを言う。ドライアイスで心冷やしてんのかと思うくらいに、凍傷になりそうなくらいに冷たい。傷つく。これが論理的ってことなのか。感情をガン無視してくる。正論で心を壊しにくる。

優しさってなんだろう。いろんな優しさがあってそのひとつをきみはもちあわせているけど。
きみはサイコロみたいに隣り合わせで冷たさと優しさをもってる。論理的なことを冷たいと感じる自分の浅はかさにも嫌気がさすけど。だけど、気持ちを、思考を、コントロールしているの?常に論理的でいられるのはやっぱりさみしさを覚えてしまう。
ずっとずっとずっとずっと、言葉のトゲが刺さってとれない。わかって言ってるのかな。それともつい口からでちゃった言葉なのかな。だけどやっぱりきっと、感情的な一面をわたしに見せないだけなのだろうな。きみはなんにも話してくれないから。

なにも言わないのは、なにも思ってないわけではなくて、ただの自己防衛だった。わたしがなにか言ったことでまた凍傷になりそうな言葉が飛び出してくるのかと思うとこわくて足がすくむ。
感情をころしたのも、そうするほうが自分に都合がいい。だけど嫉妬や独占欲みたいな感情をころすと同時に好きもころしてしまうことになる。無関心になっていく様子を眺めてはこれでいいのかと立ち止まる。

この間読んだ本に“愛は、愛を持てた人が幸せで、そこから欲望になるのは、そもそもあった欲望が都合よく愛を盾にしただけ”って書いてあるのを読んでわたしはわからなくなった。
誰しも、すきなひとに触れたいとか、話したいとか、会いたいとか、幸せにしたい、隣にいたいとか欲がある。それは愛ではないのか。たしかに元気に生きてるだけでいいよと思える日もあるけど、やっぱり会いたいし話したいしわたしだけをみててほしい。
愛と欲望が別だとして、生きてるだけでいいとか幸せになってほしいとか、そういう祈りは、関係性を作らない。交わらない。関わってない。愛は祈りだとして、やっぱり欲がないことにはその相手に関われない。わたしがなにも言わなくて自己完結させてるのもきっと、関われてない気がして不安なんだ。だからわざわざ書いてしまう。言わなかった言葉を。わたしが一生懸命頭をフル回転させて考えていても、きっと平行線のままで交われない。わかりあえない。

愛が祈りで欲望とは別だとしても、それはそれでよくて、きっと突きつめればそういうことで、でもわたしは欲をなくしたいわけじゃないんだな。関わり合っていたい。悲しいも嬉しいも共有したい。わたしはちゃんと愛を育んでみたい。
人はきっと会話をたくさん重ねたり、一緒におなじ景色をみたり、そういうことで関係性が深まっていく。
最初なんて大体みんなおなじで、交わした会話や一緒にした経験でどんどん無二の存在になっていく。なににも代えられない存在になる。
だから、きみが「きみじゃなきゃだめな訳じゃなかったけど、きみでよかった」と言ったのは今なら頷ける。

どうしてもわたしは人と関わってしか生きていけないから、わたしひとりじゃたどり着けない場所もあって。みれない景色もある。だから、だれかと、だいすきなだれかと、関わって生きていたいと思う。

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