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話がしたいよ

人を傷つけるのが怖くて、文章が書けなくなった。

わたしの書いたnoteを読んでくださり「なんかごめんね」と謝られるということが、2度ほどあった。それから自分の文章が、自分が、人を傷つけてしまっているのではないかと怖くなった。怖くなると、書きたいことが浮かんでいても、あえて書かなくなってしまった。

わたしが何か書きたくなるときは、いつだって心が動いた時だ。心が動いた時、そこにはいつも「人」がいる。

だれかと関わることで、心が動く。モヤモヤして、考えて、自分なりの「答え」を産み出そうとする。

わたしはそうやって、自分を救って生きてきた。モヤモヤしたままだと、自分の中にどんどん蓄積していって、腐っていってしまう。



中高校生のときは、モヤモヤを外へ出すのが下手くそだったと思う。家の中で暴れて椅子を壊したり、自分の髪の毛を自分でぐちゃぐちゃに切ったり。そうすることでしか、腐りきった自分を救えなかった。

でも、ただただ苦しかった。自分自身を傷つけていても、全然楽にならなかった。

大学生になり、「言葉にすることで自分は救われる」ということを知った。通っていた心療内科のカウンセラーの先生に泣きながら「つらい」と言うことで、「自分はこの状況が辛かったんだ」と自覚した。活動していたnpoでの対話のワークショップで本音を話すことで、自分の中だけでは見つからなかった思考が生まれた。

社会人になった今、わたしはnoteやX(Twitter)に救われている。言葉にすることで、本音を書くことで、そんなふうな考え方をする自分自身を許して、救っている。そう強く自覚している。


「こういう発言にモヤモヤした」と、ある人がnoteに書いていた。それは、きっとわたしの発言だった。

すぐに謝りたかったけど、直接がよかったので会える時まで我慢した。何度もどうやって謝ろうかシミレーションをしながら、その時を待った。8ヶ月が過ぎて、やっと昨日、会えたのだった。

「〇〇さんに謝りたいことがあって」とわたしの気持ちを伝えると、あんまりピンときてなかった。わたしは嫌われたものだと思っていたので、すっかり拍子抜けして、心からほっとした。そして、お互いの気持ちをなんとなく話した。わたしはその人のことが、人として、より好きになった。

わたしは無自覚に人を傷つけている自覚がある。だから、傷ついたと言われると、それが確信に変わって、自分を責め続ける。でも、意外と人は忘れるものなのかも、と思った。し、忘れたふりをしたのは、その人の優しさだったのかも、とも思った。

「傷つけるか傷つけないかは重要じゃなくて、その後にそのことについて話せるかどうかじゃないかな。価値観をすり合わせることができるかどうか。」と言われて、腑に落ちた。わたしは、いつだってだれかと話したいんだった。

一方的に、傷ついて、傷つけたくて、noteを書いてるんじゃないんです。モヤっとして、それを書きながら、自分を許して、あなたと話す時のための言語化の準備をしているのです。


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