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輪廻

 いつからか死にたいと思うようになった。
 職場の上司に理不尽に叱責される日々。夜遅くまで働いても、給料は雀の涙だった。ある時最愛の恋人にも別れを告げられ、それでも平日は身を粉にして労働し、休日は苦しみを紛らすように酒を呷る。そんな一週間を幾度となく繰り返して、希死念慮が沸々と湧き上がるようになった。
 両親とは非常に仲が悪かった。元々友人は出来にくい性質だったから、大学を卒業してからは誰とも連絡を取っていない。かつての恋人からはもう遮断されている。俺が死んでも、悲しんでくれる人間などいない。その事実がより、俺を自死へと向かわせた。
 どこで死のうかと考えたとき、やっぱり出来るだけ他人の迷惑にならない場所がいいように思った。派手な死に方をすれば、誰かの記憶にこびり付いてしまう。それが嫌だった。もう俺は、自分が存在していなかったことにしたい。初めから生きていなかったことにしたい。
 インターネットで自殺の方法を調べていると、自ずから樹海という選択肢が浮かんだ。ああ、いいじゃあないか。巨大な自然に包まれながら眠るように死んでいく。それがいい。
 首を吊れるように、しっかりとしたロープと折り畳み式の椅子を買って、俺はとある樹海へと向かった。久々に運転した車を降りる。平日の昼間だったからか、樹海には誰の姿もなかった。奥へ、さらに奥へと足を踏み入れていく。『命を大切にしよう』という看板を見かけた。俺はその看板を見て、久しぶりに笑った。静寂に満ちた世界で、俺の笑い声だけが響いている。黙れよ。心の奥深い所で思った。
 大きなヒメコマツの木があった。俺は太い枝にロープを巻き付けて、すぐ近くに椅子を置く。その上に乗って、輪っかになったロープの部分に顔を通して、少しして椅子から足を浮かせた。苦しい時間はすぐに終わった。後の時間に比べれば。
 ……そうして、違和感に気付く。
 いつまで経っても意識が消失しない。それなのに俺はもう呼吸をしていない。でも苦しくない。変だった。俺は呆然と、自身の置かれた状況をただ認識していた。
 空の色が移り変わる。俺は長い間そのままでいる。叫ぼうとしたけれど声が出ない。身体を動かすことも出来ない。
 視界は開けていた。でもあるとき、段々と地面が遠ざかっていることに気付く。そして、俺自身の腐り落ちた身体が見えた。悲鳴を上げそうになったけれど声さえ出ない。俺だったものは数多の虫の餌になりながら、ぐずぐずと形を失っていった。
 あるとき、気付いた。
 俺はヒメコマツになっている。
 それは俄かには信じ難い事実だった。そして同時に、非常に恐ろしいことでもあった。俺の意識は首を吊るために使用した木に吸収されてしまった。そしてそれは永遠に続くのだろう。自殺をした罰、なのだろう。
 悲しむことが出来たのも数日で、そこから俺はただ長い時間をぼうっと過ごすだけの存在になった。強い感情が長く続かないことを知った。冷静に再考してみると、それは以前とそう変わらなかった。強い自殺願望はあり、それは完遂されたけれど、それを抱きながらも俺は茫然と呼吸をしていた。どこかに向かっているように見えて、それを志向する意識はとても微弱で存在を確認するのも難しい。そういう状態は決して新しくなどない、むしろ懐かしいとすら思える。
 あっ、と生きていたなら口に出していたかもしれない。登山道からは外れた場所にあるこちらに向かってくる影がある。巡回に来る人の格好ではない。登山やハイキングの観点から見ればド素人。しかし、際立って都会的という訳でもない。受ける印象で言えば、ちょうど俺がここまで着てきた服に似ている。
 何の目的で来たのかは考えるまでもなかった。結構太っていて、男か女か判別がつきにくいタイプ。俺が使った椅子を見つけてフッと笑う。あんたにそれは使えないだろう、と俺も笑うけれど、笑えない。そいつは椅子を立て直して座ると、悠々と弁当を食べ始めた。セブンイレブン印のキーマカレー弁当、結構美味しそう。会社員生活を続けていたら手に取っていたかもなと思う。でもそれが陳列された会社のビルのコンビニを思い出して、勝手に陰惨な気分になる。ちなみに椅子は何とか耐えている。あんなに丈夫だったとは知らなかった。
 そいつは弁当を登山道の方に殴るように放り捨てた。汚い。プラスチック容器は分解されにくいことを分解された身分で憂慮している。でも、自殺者が人知れず死にたいと考えながら、何かを残して発見されたいというアンビバレントな感情に晒されがちなことはよく理解できる。俺はそれをしなかったけれど、どこかでコンビニに立ち寄っていたら、そうしたかもしれない。案外そんなものだと今は思う。
 その後は大体俺と同じになる。視点が変わったくらいで、何から何まで。外側からはこういうふうに見えるのかと思った。そいつのビジュアルの問題でもあるが、とても見られたものじゃない。まず何より醜い。人間の肉体はその統御機構が働かないとこうもみすぼらしいものかと思う。全部ブーメランだけれど、だからこそ、自分が以前にはこれを晒したことが今更悔やまれる。晒した?誰に晒した?
 ハッと気付いた時には、後任のことを考えることもなく、俺は蝋燭の火が消えたように……

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