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きはじ 3

 空前の就職難と言われていた時代にも、行く当ては見つかる。それも意外なほど早く、近くに。そこは創設から五年目になる3DCG製作の下請け会社で、俺のキャリアはデザイナーの見習いから始まった。
 学生の時から半端に齧っていたことが活きて、そこそこに熟していくと、仕事が回ってこない日は無くなっていた。ただ、それも特別なことではない。包み隠さずに言えば出来の悪い同期も、普段は偉そうなチーフマネージャーも、納期前やら仕事関連の単語ばかりが覚えて、そういう単語で話す時だけ達者になっていく。
 結局、学生時代とそう変わらない、同じ場所を行き来する日々が続いていた。俺達は互いを色々な呼称で読んでいる。同期とか、同僚とか、知り合い等々。それでも決して友達や恋人にならない。何をする時も深入りしない状態をぬるま湯に浸かり続けるように楽しんでいる。
 県外の観光客は来ないような穴場で飲み歩いて、たまにチーフマネージャーが好きなカラオケに付き合わされて、帰ると少し頑張ってやっと買えるようになったIoT家電に迎え入れられる。学生の時から馴染んだ小さな部屋は、無機質な賑やかさを帯びている。
 薄味になっていくことが、つまり、刺激を得ない関係を保ち続けることが、漠然と怖くなった。痛い目を見たくなったわけではない。快楽に溺れたいわけでもない。ただ、それを求めることを恐れる自分になること自体が何よりも嫌だった。

 電車は浜松を過ぎた。それをLEDの案内板で知る。外の駅名標は誰も見ていないし、動体視力的な意味で、見ることも出来ない。そう言えば、自動車教習所の訓練で一度だけそういうテストがあった。高速で過ぎる景色を把捉するあれで、俺は唯一答えられたけれど、別に成績評価に繋がらなかった。
 なおも俺は速さのことを考えている。それは俺が縁を持った人々の人生のこととも言える。遅すぎると速いものが見えなくて、速すぎると遅い物が見えない。同じ速さが隣にあれば、並走する自動車のように、お互いが止まっているかのようにはっきり見える。俺は速さの違う人や別の方向に向かう人を何度も見てきた。だけど、俺に必要だったのは、多分そういう人ではなかった。

 例の同期がついに退職した。それもこれ以上なく忙しい時期のことで、会社はそれに構っている暇が全く無かったから、気付いた時には席ごとなくなっていた。慢性的な混乱で頭がおかしくなったチーフが行使した切り札は、昔の縁を片っ端から頼ることだった。
 結構な金額を収入として持ちかけても大半のクリエイターは断る。漫画家のアシスタントやマネージャーならまだしも、3Dデザインの繁忙期の臨時バイトとは意味が解らない。何にも繋がらないし、キャリアに得られるものが極めて少ない。まず、できる人がそう多くない。
 そのような中でも二人連れてきたのだから、俺と少し上の同僚達は揃ってチーフを見直した。片方は完全オンラインで引き受けたので、最後まで顔を見ることはなかったが、仕事やチャットの返信は極めて速く、文章は簡潔で、どこかドライなイメージが勝手に定着した。
 結果から言えば、職場まで顔を出してきたもう一人が、俺を連れ出していった。それがどこなのか、その場所に名前があったのかは定かではない。ただ、今ここに続いている道程に、それがあったことだけは確かだ。
 彼女は俺のことを「スミ」と呼んだ。苗字で呼び合う慣習の会社の中では、少し恥ずかしかったが、中学生の頃に戻ったようで、ちょっと浮かれたことは否定できない。俺も気付けば彼女のことを「マシロさん」と呼んでいた。それは彼女が本職のイラストレーターで使っている名義だった。
「スミはもっと色々なことしてみればいいと思うなぁ。実力はあるんだし」
 彼女に俺が学生時代に描いた絵を見せた日のことだった。ずっと温めてきたフォルダの中の一枚だった。
「ありがとうございます。でも、いいんです。今はどこかへ行く気になれなくって」
「そっか、それもいいのかもね。昔飼っていた虫もそうだった。いつでも逃げられるような開け放しの虫籠の中でずっと与えられるキャベツを食べていた」
 反応に困る返しだった。多分、困らせるための文句なのだろう。
「でも、家族旅行から帰ってきたらもぬけの空だったの。締め切った部屋を舞う蝶が同じ生物だって気付いたの。どこかへ行くって季節を待たなきゃいけないのね」
「そういうオチですか」
 俺はその時、その比喩を説教臭い綺麗事と鼻で笑った。素直に受け取れなかったことを隠すことばかり考えた挙句、反応を間違えた気がする。それを即座に後悔したことすら言い出せなかったけれど、そんなことを気にする素振りも見せずに、彼女は翌日も話しかけてきた。そろそろ仕事は山場を越えて落ち着きそうで、もう一人、その名前も覚えていない方は、マネージャーから非課税の給料を貰って退場していた。
「マシロさんはまだここにいるんですか?」
「そうだね、もう少しやっておけばマネージャーのお金も弾むだろうし、それに君のことが気になっていたりするんだ」
「へぇー、え?あっ、俺ですか」
 間抜けな返事が出た。俺は初めて彼女の方を向いた。彼女がずっと俺の顔を見ていたことに、その時気付いた。
「そうだよ。スミをどこかに引き連れたいって思っているの」
 マシロさんがどうしてそんなに俺を羽ばたかせようとするのか、俺には解らなかった。ただ、その後ただならない関係に転げ落ちたことは否定できないし、それを二人して望んだことも一時の事実だった。
 長い思索の中で幾度も問い直すことがある。俺の人生には、少なくとも今日思い浮かべるライフプランには、マシロさんとの出会いが必要だったと信じて止まない。それならそれは相手も同じなのだろうか。その問いの対象はマシロさんに留まらない。両親、真宙、友達と呼べる人達とそうでない人達。ただ俺を知る人達。絡まり合う線の全部が俺に固有の光に導かれて、或いは波長を聴き合って、その軌道を変えたりしたのだろうか。
 実にならないことばかりが、脳を埋め尽くしている。それが自分の中にある、というよりは、その中に自分があるという方が適切な気がしている。

 俺は、マシロさんがどうしようもなく浮気性な女で、俺を口説き落とすように思わせぶりな口調を使う傍らで、平然と他の男とチャットできる人だと、いつからか知っていた。それなのに、こちらも何食わぬ顔で私的に付き合うようになっていた。相手が凶暴な男だとか、面倒なストーカーだとか、そういったことは考えられなかった。むしろ、その片手間で打ち込まれる文章の先にいるのも、俺と似たような男だと思えて仕方がなかった。鏡に映した自分を撫でるような、根拠のない親近感を抱いていた。彼女は俺みたいな男をいつでも乗り換えるように渡り歩きながら、その実、その類の男を慰めるためにいるような、驕りに近い錯覚まで抱いていた。

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