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日本中世史における読者の成熟

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 先日、ある研究者のインタビューが、TwitterやFacebookで少々議論を巻き起こした。
 僕は当該インタビューの全文を読んだわけでも、その方のご研究をしっかりと評価できるわけでもない。
 なので、インタビュー内容の是非についてはコメントできない。
 ただ、当該インタビューの話題になり方に感ずるものがあったので、ここに記して備忘としたい。

 いったい、学問というものは決して閉じられたものというわけではないのだが、やはり往々にして世間一般というものからは距離があるように思われがちである。
 堅苦しいとか、難しそうとか、何の役に立つのかとか言われることも多い。

 また、これはいかなる学問領域においてもそうだが、専門用語というものが存在する。
 一般的な語であっても、別の定義が存在したり、定義について論争があったり、はたまたまったく耳慣れない言葉について、応酬が交わされていたりする。

 これらは、「一般読者」を学問から遠ざける要因になる。
 うまく噛み砕いて伝えることができればよいのだが、学問というのは綿密なものであって、それはそれで難しいのである。
 「わかりやすく面白く」を優先するあまり、学問の本当の面白さが伝わらなかったり、不正確な記述になってしまうことは、一般向けの書物によく見られるところである。

 しかし、このたびのインタビューをめぐる感想や疑問の声には、かなり的確に専門用語を使いこなす読者が相当数存在していた。
 具体的に言うと、「一次史料」「文書」「編纂物」「先行研究」といった用語の意味を正確に把握している読者が、相当な厚みを持って存在しているということが明確に感じられた。

 これは実は大変なことで、日本中世史について知りたい読者のレベルが非常に高いことを示している。
 僕は常々、研究者の方に執筆を依頼する際に、「偏差値を落とさず、読みやすく書いてください」とだけお願いするようにしている。
 今回の騒動(?)を通じて、この態度は少なくとも間違っていなかったのだなということが再確認されて、非常に嬉しく思った次第である。

 日本中世史において、このような読者が育ったのは、やはり先学の努力と、それを世に問うてきた版元や編集者の功績であろう。
 僕はいまその恩恵に与っているが、願わくは中国古代史や日本古代史においても、そのような読者が増えるよう、今後の編集者としての活動を通じて、世に問いかけていきたいと考える次第である。

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