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浮ついた思考

まあ、死んでもいいか、もう。
と、思うことがあります。およそ褒められたものではありません。でも時々そういう倫理観を飛び越えて頭の中に文字として思い浮かんできます。シチュエーションは様々です。例えば、最高の音楽を浴びたときにも思いますし、めちゃくちゃ自尊心を傷つけられて意気消沈しているときにも思い浮かんだりします。ポジティブな場面でもネガティブな場面でも出てきます。

微妙にニュアンスが違いますが、まあ、どうせ死ぬし。とも思うことがあります。どうせ死ぬんだからこんなこと気にするなだったり、どうせ死ぬんだからこんなことに力入れる必要ない、と続いたり。こちらもいろんな場面で登場します。思ったあとに、さらに思うんですよ。「本当に死んだりなんかしないくせに。」それで自分にうんざりするんです。なーにがどうせ死ぬだよ、死ぬ気なんてないくせに。

何が言いたいのかというと、死ぬという言葉が圧倒的に自分のなかで現実味のないものになっているということです。普通というか、カジュアルになっている、というか。受け止め切れていないというか。これが良いのか悪いのかわたしには判断がつきません。人に向けることは決してないのですが、自分にはいともたやすく突き刺したりします。ある種の免罪符になっているのかもしれないですね。自分を痛めつけて、傷んだふりをして、免罪符を得て、安心する。あまり良いことではないです。死にたいというよりは消えてなくなりたいのほうがしっくりくるような気もします。存在そのものを抹消して欲しいときがあります。それか、わたしのことを知っているすべての人からわたしの記憶を消して欲しいです。何を言ってるんでしょうね。

身近な人が亡くなったときに、初めて感じたことがたくさんありました。こんなにもつらいことなのかと思いました。あのときたくさん泣いておけば良かった。きちんと思い出をなぞればよかった。感情や喪失感をきちんと受け止めればよかった。無機質な病室で貴方の言葉が聴き取れなかったことを今でもずっとずっと後悔している。その後悔にすら蓋をした。そうしないとおかしくなりそうだった。棺桶のなかで静かに目を瞑る貴方を見て泣けばよかった。今でも時々思い出して眠れなくなる。後悔に胸を掻き毟りたくなる。最後に死にたくなって、貴方に申し訳なくなって、また後悔する。会いたくてたまらない。わたしは後悔ばかりが先だって、まだ人が死ぬということを自分のものにできていません。その部分だけ幼いままです。いろんなことをぐだぐだ言っていますが、誰よりも死ぬことが怖いし、誰よりも死ぬことに現実味がないです。未熟です。

こんなこと書いていますが、明日にはきっと元通り、好きな音楽を聴いて、毎日に希望を感じたりするんです。そして時々、こうやって誰に何をされたわけでもないのにひどく落ち込んだりもするんでしょう。そういう自分も受け入れたいですが、中々難しいですね。

昨日食べたプリンがとても美味しかったです。サイダーガールの曲を聴いてニコニコしました。BUMP OF CHICKENの『HAPPY』を聴くと勇気がもらえます。今はそれでいいと思います。

自分ってこんなこと考えていたんだなと気づきました。ちょっと恥ずかしいですね。前回の記事を書いてからずっと、亡くなった人のことばかり考えていました。あれ以上書くのはまだつらいので、それはまた書けたら。明日からは好きなものの話をしたいです。