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「意識と本質」とコーチングと

垂水隆幸さん主催の、「意識と本質」読了会に参加してきました。

哲学って縁遠いものだなあとおもっていたけど、日々生きる中での気づきや体感覚をぐーーっと抽象化すると哲学に近づいていくし、意外と近くにあるぞ?!と気づくきっかけになりました。面白かった~~

▼意識と本質はこんな本

文字通り、意識と本質を哲学する本です。引用するとこんな感じ。

「意識と本質」という表題の示すとおり、人間意識の様々に異るあり方が「本質」なるものをどのようなものとして捉えるかを、ここでは特に「本質」の実在性・非実在性の問題を中心として考察してみたい。

まず出てくる言葉(…の意識、嘔吐的体験、絶対無分節)もわからないし、こういう毛色の文章のお作法(科学論文でいうabstract、introduction、materials&methods…)もわからないし、ほんとにとってもハードでした!!笑
ほぼ哲学にふれてこなかったんですよね、と言ったら、「初っ端から本丸に突っ込んだ感じ」と返され、ですよねーとなるなど。

本質とは何かということについて、そもそも本質なんて無いよ!派本質はある!派、その中でもいろんなひとたちがこの問いについて様々な角度から考えてきた事柄、その歴史をまとめた一冊なのだなあという認識です。我こそは!という方はぜひ。

(本来入門書におすすめの本聞くの忘れてたな)

ここからは、わいわい話したうちの印象的なトピックについてつらつら書くやつです。

哲学の難しさはどこにあるのか

文章を読むとき、必ずと言っていいほどビジュアル化してイメージをつかむ癖がある。「意識と本質」は、使っている言葉になじみがないのもあり、それがしづらくて苦戦したところが大きかったです。

主催の垂水さん曰く、書いてある内容について体感を伴って解することができないと哲学って難しいらしい。そもそも自分の意識や心の動きについてアンテナを張り巡らせていないと、なかなか理解できないのが哲学なのかもなあ。じゃなかったら足を踏み入れない領域とも言える。

論文のお作法も分からん…と嘆いたからだろうか、"科学と哲学はもとは同じで、正しいらしい言語に当てはめるゲーム"だと榎本さんが教えてくださった。科学技術の発展とともにどんどん言語化が進んでいき、言葉にできない感覚やメタな意識など言葉で説明するのが難しいものが哲学に残って(集まって)いる。それらをなんとか言語で記述しようとする試みが哲学であるらしい。そりゃ難しくもなるよなあ。

「意識と本質」を読んでいて、文章で表すのではなく、脳にそのまま直接インストールしてほしい!!!という感覚になったのだけど、あながちまちがいでもないのかも。

どう哲学に対峙するかのスタンス

哲学に対峙したときに、真理を探究したいという基礎研究派と現実世界をよりよくするためにどう使うか考えたいという応用実践派がいる。また、認識主体である自分がどう感じるか、もしくは起きている現象に興味があるのかの軸もある。

これらの軸で見たときにどこのスタンスをとっているかによって、同じ”哲学”を扱っていても解釈の仕方や考えの及ぶ方向が全く異なるのもまた面白かったポイント。

どっちが崇高とかそういうことではなく、生まれ持ったもの、キルケゴールの主体的真理のレベルでの違いであり、興味関心の向く先がどちらかということ。自分で分かっていればそれでよい。

ざっくりわかる主体的真理
○○株式会社、職業、みたいな社会にある箱に入って自らを定義しがち。主体的真理とは、自分がどうしようもなく惹かれるもの、その傾向性の核となるもの。

(上記は個人的な理解であることを留意ください)

▼ちゃんとわかる主体的真理についてはこちら

計5人の読了会だったのですが、基礎研究派:応用実践派=2:3でした。みんな見ているのは認識主体(自分)の方向というのは同じ。自分は完全に応用実践派です。というかコーチングをやっている勢がみな同じ派閥でした。

ふだんこの派閥が交わることってあんまりないけど、両派が混じった対話の価値はとても高い。

後述するけど、フィールドワークでの体感覚や気づきを哲学のまなざしで言語化してもらえてとっても面白かった。基礎研究派の平野さん榎本さんに大感謝です。ありがとうございました!!!

3+1意識モデルとコーチング

アルー株式会社 落合文四郎社長と垂水さんの対談で出てきた3+1意識モデル

思考意識が普段人間が「意識」とおもっているもので、それより高次の直感意識、メタ意識は言葉にならないもの。

身体・思考・直感の3つの意識を映画の主人公としての自分の意識と例えるならば、メタ意識とは、映画館でスクリーンを観ている自分の意識になるらしい。いいとか悪いとか善悪はなく、こういう設定だったんだ、と事実をそれとしてとらえられる感じ。平野さんの例えが秀逸すぎる。

対談の内容はこちらから。まごうことなき神回でした。

現実の現象がうまくいかないとき、思考意識を直せばよいとおもってしまうけど、なんとなくこっちが好ましい、こうしたいといった主体的真理や直感意識にあるミッションを無視してしまうと結局苦しいまま。

ビジュアルで考えるよさ

自分が行うコーチングセッションでは、比喩やビジュアライズを多用しているのだが、直感意識やメタ意識にアクセスする手段として機能していそうだなと。

自分の中から沸き起こる波に乗っていく波乗りジョニー、それを邪魔するプライド高いヤンキーなど、その人固有のキャラクターが出てくる。

出てきたイメージをそのまま扱って、広げていくのもたのしいし発見がある。ルービックキューブはそろえていきたいか、それともバラバラな方が進みたい方向には合ってそうかを考えてもらったり。

例えやイメージで話すと、正解不正解の世界(思考意識)から離れて、なんとなくしっくりくる/こない(直感意識)での発想が可能になる。

また、波乗りジョニーやプライド高いヤンキーは本人の意識をキャラクター化して名前をつけたもの。いつもなんて言ってそうか、どういうときに大きく/小さくなるのか等を考えることで、メタ意識としてとらえやすくなる。
ここらへんは、名前をつけてやるシリーズとしてnote書いたりしてたやつです。

▼自分の感情に名前をつけてやるnote

話題と直接関係のない言語でそれを話すと、外からインストールされた「こうあるべき」みたいなものが入り込む余地なく、言葉にならない主体的真理に瞬間的にタッチできる気もしています。

体感覚のあるすきなことは分節(Ⅱ)の言語になる

例えば、スイーツが好きなひとと、「どんな自分でありたいか」を話していたときのこと。「その理想の自分像って、スイーツで例えると何ですか?」と問いかけてみた。返答としてはチョコレートケーキ。

どっちかっていうとシンプルで、ぎゅっとつまってて濃厚な感じ…というチョコレートケーキに付与した特徴から、全く異なる話題である「理想の自分像」が導き出されていた。

このとき、「意識と本質」で禅の説明として出てくる、分節Ⅱの言語で話しているらしい。

すきなことは体感覚があり、本質がとらえられているため、自然と無分節(禅でいうところの悟り)を通ったものになっている。

そのすきなことを言語として用いると、分節Ⅱの言語で話していることになるため、借りてきたそれっぽい言葉で表したときとは比べものにならないくらいにしっくりくる表現が紡げるという寸法。

平野さん曰く、すきなものに関しては本質を見れるし主体的にとらえられるとのこと。

無分節の言語化できない領域に接続すると、結果としてそのひとにしかできない、しっくりくる表現が可能になる。らしい。

実践していたことのすこし見えてきた。コーチング文脈に哲学を持ち込むメリットだなあ。
非言語領域に接続する方法は複数ありそうなので、ここは別途まとめたい。

言語の限界

自分が何かを伝える際ビジュアライズを多用するのは、自分にとってはそれがいちばん変換効率が良いからです。

言語を介すると箱に入ってしまうというか削れる何かが確実にある。ビジュアライズしたとしても、ちがう身体を持った相手に伝えるには多少の加工は必要だけどね。

脳にそのまま感覚をコピーできたらいいけど、そうもいかないからなあ。感覚を伝える、おもいだすためのスイッチとして言語を使う、という発言があったけどまさに。そういう言語の使い方を研ぎ澄ましていきたい。

新たに興味が出てきたこと

いつもながらにまとまってないnoteですが、新たに興味が出てきた領域やテーマについてダーッと書いて終わりとします。

・NLP
・もうちょっとやわめのところから哲学をやる
・ジャズセッションと場の意識
・愛は無分節
・実在的なコーチの存在がコーチングの本質である
・宗教と哲学と言語
・体感覚に着目して何かを習得してみたい

よっしゃ、やるぞ!となったら読み返したり続きに位置する書籍に手を出したいすね。
(やわめの哲学書をご存知の方は教えてください!!!)

それでは〜〜

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