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「やわらかな季節」



ちいさな手をひいて歩く道は
空高く昇った日に照らされ
流れるものはすべて
ゆったりと動いていく

時々よろめくちいさな歩幅に合わせて
一歩を踏みしめているとき
わたしはじっと待ちながら
人生の速度を落として
季節の風を感じている

やわらかな体をしたあなたが生まれてきて
窓はひらかれ
のぞきこんでいるわたしの内側に
よろこびも不安も混ざりあって吹き抜け
めまぐるしく
これまで知らなかった
はじめての香りがとどく

いつかこの季節が過ぎても
窓はひらいたまま

そのとき見える眺めに重ねて
やわらかなあなたがくれた景色を
いつでも思い出せるように


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ちいさな子どもを連れて歩いていると、「今がいちばんいいときね」「人生の黄金時代だわ」と声をかけていただくことがたびたびある。人生の先輩であるご婦人方からしみじみとそう言われると、それまでのご婦人の過ごされてきた人生の一幕ひとまくに思いを馳せてしまって初対面のはずなのに途方もない気持ちになって「そうだよなあ」と口には出さないものの頷いて目線をさげて我が子の後頭部を見つめてしまったりする。

そうだよなあと思いながらも実際は毎日目まぐるしくて、朝起きてから夜寝るまで「ママ、ママ」とあっちこっちから呼ばれ家事に掃除に洗濯にやることがてんこ盛りで「これが一体いつまで続くんやろ…」と内心げっそりすることも少なくないというかほとんど常ではある。それでも完全お世話必須の赤ちゃん期を過ぎ、今年5才の息子と3才の娘はだんだん自分で出来ることが増えてきた。歩くのを覚えたてでまだよろよろと危なっかしかった彼らはもう1人でしっかりと前を向いて、私を残して駆けていってしまうこともある。そんな時、いつかご婦人方に掛けてもらった「いまが一番いいときね」類の言葉が過去形になって胸の底に浮かんでくる。

いま自分が見ている目の前の景色と、かつて自分が見ていた大切な景色が二重になって広がって、ああ「そうだった」んだなと何に対してかよくわからない切ないようなさみしいような気持ちになって、だからこそ一層、毎日の目まぐるしさに安心を覚えている自分もいる。生まれたての赤ちゃんのやわらかさに驚いたかつてのあの日から、子どもたちはよく食べよく遊び今はもうふにゃふにゃのほやほやではないけれど、それでもやっぱりぬくぬくと滑らかな肌はやわらかい。そのやわらかさには不思議な力がある。かつて持っていた生まれたての神聖な肌から、その発光するようなやわらかさを失っていくと同時に未来への成長を得ている途中のやわらかさ。時とともにどんどん移り変わっていき、きっといつかは終わってしまうやわらかな季節なんだろうけれど、今はまだ目の前に開かれている窓から見える景色を楽しみたい。過ぎ去った景色も含めて、味わいたい。

いまが人生においてどんな時かというのは、過ぎ去ったからこそ味わえるし見えるものも変わるのかもしれない。良くも悪くも過ぎてしまっているから巻き戻せないものでもあるし、手の届かない窓の向こうの景色として眺めるしかない。それでもこうして書きながら、窓の向こうに見える景色はこちら側の今の自分が作っているものでもあるんだよなとふと気がつく。彼らと過ごすひとときをどう過ごしてどんな景色が見られるのか。
それに何を感じるのかは時々によるだろうけれど、3才の背中に2才、1才、0才のときの姿を透かして見てしまって大きくなった今が眩しくてこの景色をきっとまたこの先も何度もなんども思い返していくんだろうなとちょっと涙が滲んだりして、過去形なんだか現在進行形なんだかわからない時間軸のなかをわざと目まぐるしく毎日泳いでいる。

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