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母と妻の犠牲があったからこそ成功した、世界初!全身麻酔手術を成功させた日本人。華岡青洲 偉人伝.3


「内外合一 、活物窮理」
(内外合一:外科的治療は、患者さんの全身状態をを充分に把握した上で、治療すべきである。)
(活物窮理:治療の対象は、生きた人間であり、それぞれが異なる特質を持っているので、人を治療するのであれば、人間の身体の基本的なメカニズムを熟知した上で、深く観察して患者自身やその病の特質を究めなければならない)ー華岡青洲ー


こんにちは。moeです。
今日では、手術を実施するのに、麻酔無しで行うなど、考えられません。全身麻酔が開発される前の外科手術は、地獄の責め苦だったと言います。そして、外科医にとっても、痛みに耐えかねて暴れ、泣き叫ぶ患者の手術を続けることは大変なストレスだったようです。そして、世界で初めて全身麻酔下での外科手術を成功させたのは、なんと日本人!外科医華岡青洲による乳がん摘出術だったのです。
作家有吉佐和子が小説「華岡青洲の妻」を執筆し、舞台やドラマ化されているため、ご存知の方もいると思いますが、私は数年前まで知りませんでした><
今日は、そんな華岡青洲という江戸時代の外科医についてご紹介します。


華岡青洲ーはなおか・せいしゅうー
1760年11月30日ー1835年11月21日(満74歳没)
肩書きは、江戸時代の外科医、世界で初めて全身麻酔を用いた手術を成功

医学の道へ

医師の息子として紀伊の国、現在の和歌山に生まれ、22歳より京都に出て、医学を学びました。欧米ではちょうど、フランス革命が起こり、ナポレオンが皇帝に就いた頃でしょうか。


京都で3年ほど最先端の医術を身につけて、故郷へ戻り、父の跡を継いで開業しました。しかし青洲にとって、京都での最先端の医術の修行は、同時に医術の限界を痛感するものでありました。
当時、乳がんは、切れば患者の命が危ぶまれるほどの大手術と言われていました。日本では、乳房は女性の急所と考えられていたため、メスを入れることは禁忌と考えられてもいたようです。しかし、青洲はドイツの文献から、切除の事例や、乳房にナイフが突き刺さっても、生きている症例を目にし、乳房切除はできるのではないかと考えていました。しかし、当時は触知できるほどの癌となってからの発見でしょうから、その乳がんを根治するほど大きく切るのは、患者が受ける堪え難い痛みがある。その痛みを解決しなければならないと、青洲は麻酔の研究をはじめました。

命がけの麻酔薬開発

青洲が開発した麻酔方法は、曼荼羅花(まんだらげ)、別名チョウセンアサガオに複数の薬草を配合するというものでした。動物実験ののち、実母の於継と妻の加恵が実験台になることを申し出て、数回にわたる人体実験の末に、なんと、母於継の死、妻加恵の失明という大きな犠牲を払うことになります。。20年もの歳月をかけ、ついに麻酔薬「通仙散」別名「麻沸散(まふつさん)」という内服薬が完成しました。通仙散は飲み薬であるために麻酔が聞き始めるまでに約2時間、手術を始められるまでに約4時間、目覚めまでに6~8時間と、現在の麻酔と比べて格段の時間を要するものでした。

全身麻酔外科手術の成功

そして、青洲45歳の時に、藍屋勘という60歳の乳がん患者に対して、全身麻酔下にて乳房摘出術を行うことになりました。左の乳房に1年前からしこりがあり、青洲の診察を受けた時には、赤く腫れていました。勘の姉も乳癌で亡くなっており、このまま放っておくと命のないことを知っており、勇気を持って手術に同意しました。そして、文化元年10月13日、通仙散による全身麻酔下で、世界初、乳がんの摘出術に見事成功しました。手術の方法は、青洲が考案したもので、現在の乳房部分切除術と呼ばれる術式に相当するといいます。勘は手術から20日ほどで、故郷へ帰ることができました。この手術により、青洲の名は、日本中に広まり、日本中から患者さんが集まってくるようになりました。

しかし、手術を受けた勘は、術後4ヶ月で亡くなってしまいました。記録によると、癌は乳房全体に広がっており、手術では切除し切れないほど進行していたのではないかと推察されています。

青洲が手術した乳がん患者143名のうち、生存期間が判明するものだけを集計すると、最短で8日、最長は41年で、平均すれば約3年7ヶ月となる。これは、200年以上も前であること、外見から明らかにわかるほど進行した乳がんが主体だと推定されることを考えれば、立派な治療成績と言える。テルモ株式会社ウェブサイトより


青洲が全身麻酔下手術を成功させたのは、1846年にアメリカのウイリアム・モートンによるエーテルを用いた麻酔手術より、40年以上も前のことでありました。
青洲は、乳がんだけでなく、膀胱結石、痔、脱疽、腫瘍摘出術など、様々な手術も行なっていたようです。
全身麻酔手術の成功により、患者だけでなく、入門を希望する者も殺到しました。青洲は、門下生たちの育成にも力を注ぎ、医塾「春林軒」を設け、生涯に1000人を超える門下生を育て、全国に青洲の術が広がり、多くの患者の命が救われました。

最後に

実の母の命、妻の眼が犠牲になって。というのは驚きの事実ですが!!この時代には悲願の薬だったことでしょう。現在は、青洲の麻酔法は使用されていませんが、開発した麻酔薬によって救われた命が、多くあることに違いありません。現在では当たり前のように使われている麻酔薬も、よく考えてみれば、つい200年前には無く、治療しなければならない時には、麻酔無しで治療していたんですよね∑(゚Д゚)
冒頭の「内外合一 、活物窮理」という言葉は、一人一人の患者様と向きあう医療をという言葉を、現代の私たちに教えてくれているような気がします。


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