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田舎育ちはデリカシーがない。

「田舎育ちだとデリカシーがない人に育つんじゃないか。」

今日のテーマはこれだ。どどーん。先週くらいの僕が思いついたらしく、スマホのメモ帳に書いてあった。なぜこの考えに至ったのか、少しの間僕の話を聞いてほしい。

僕には自分が気の遣える男だという自信がない。別に「デリカシーがない」とも思ってないけど。実際のところ、客観的に見るとどうなんだろう。そんなことから僕の考えごとは始まった。

「気の遣える男って大人っぽいよな」

子どもは気を遣わない。それがのびのびとした良さでもあるけど、ある程度の年齢になるとデリカシーが求められる。子どもはどうやってデリカシーを手に入れるんだろう。そんな感じで僕の意識は「子どもの成長過程」に移行していった。

僕の子ども時代はどうだっただろうか。僕は、田舎の閉鎖的な関係の中で子ども時代を過ごした。幼稚園から小学校、中学校までクラスメイトは変わらず、転校生が来ることもない。クラスメイトは20数人、同じメンバーと10年以上。毎日同じ顔と挨拶を交わして、話をして、そうして子ども時代を過ごした。この時期に僕の人格の大部分は形成されたのだろう。

「都会の大きな学校で過ごした人の感覚ってわかんないな」

どういう感じなんだろう。廊下に知らない人がいて、毎年クラスが変わって。幼い僕はどんな気持ちになるんだろう。「不安だろうな」と思った。常に周りには知らない人の目があって、どう思われているのかもわからない。小さな僕はきっと不安に違いない。

田舎で過ごしていると、「知らない誰かの気持ち」を考える機会がない。だってみんな知ってるから。不特定多数の人を想定する機会がないのだ。不特定多数の人を想定するということは、ある意味で自分を客観視することでもあると思う。「こいつだったら大丈夫」なんて考えは排除して、なるべく平均的な視点から自分の行動を見つめ直す行いだ。平均的な視点ってのは議論の余地のある言葉だけど、ここでは「子どもが知らない人の目を気にしている」くらいの意味で軽く捉えてほしい。

田舎で過ごしていると、その機会がない。誰かの気持ちを考える時、必ずその「誰か」には顔がついている。関係性に紐付いた感情しか考えない。すると、自分の行動を客観視して反省する機会が少なくなる。なるほど、田舎生まれはデリカシーがない男に育つに違いない。確かに田舎のおじさんは漏れなくデリカシーがない。

子供の頃からSNSを使っているとこんなこともないのかもな、とも思った。あそこは顔のついていない感情で満ちている。あいにく僕は子供の頃からSNSを使っていなかったから、自分をあまり顧みることなく青年になった。これが、「田舎でのびのび育つ」ということなのだろう。もちろんいいことでもある。

そんなわけで、僕は気の遣えない男だろうけど、それはしょうがないことなのだ!生まれのせいなのだ!

その分、他人の感情には慎重になっているつもりだけど、そうすると卑屈な感じになってしまう。これもしょうがないのか?おかしいな、田舎生まれだからと言って卑屈になる理屈はなかったはずだ。むしろのびのび育ったはずなのに。さては田舎だとのびのび育つってのは嘘だな?また真理を発見してしまった。天才すぎて困る。

しょうがないので、なるべく卑屈がバレないように生きていきます。これも卑屈か?



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