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【短編小説】満月よ照らせ 2

1の続き)


 オレンジ色のペンキで塗りこめられた木製の扉のすきまから、二対の青い瞳がこちらを見上げていた。


​ まるで暗がりから状況をうかがう気性の荒い生き物のように、その目ははっきりと敵意をもって俺を睨んでいた。部屋の明かりはついていない。家の中があまりに暗いので、俺を出迎えてくれたのが黒いスカーフを顔に巻いた少女だとわかるまで、しばらく時間がかかった。

​ 「いまは家にいない。この時間はいつも病院に行ってるから」

 どうやら黒後冴絵は不在らしい。病院に通っているということは、大きな怪我をしたか、通院が必要な持病を抱えているのかもしれない。しかし彼女はその界隈ではかなりの有名人だから、もし当人が怪我や病気を抱えているのだとしたらメディアで何かしら報道があるはずだ。俺の知る限りではそんな記事やニュースはなかったし、そういう噂を耳にした覚えもなかった。おそらく彼女は、誰か近しい人間の見舞いか付き添いで病院に通っているんだろう。俺はそんな風に見当をつけ、とりあえず目の前の少女にうなずいて見せた。警戒を解くために微笑んだつもりだったが、少女の眉間にひとすじのしわが寄ったのを見ると、あまり上手くはいかなかったようだった。スカーフで顔のほとんどが隠れていても、目や瞼や眉間のしわのかすかな緊張が感情の起伏を子細に伝えてくれる。

 黒後冴絵がいないとわかったのだから、少女に伝言でも残して出直すべきだったんだろう。でもそのとき俺は、また下の通りまで降りて、あの陰気な街を歩く気分にはどうしてもなれなかった。身体は絞り切られた雑巾みたいにくたびれていたし、空腹に急いでパンを詰め込んだせいで胃がきりきりした。反対に頭は妙に冴えて、自分をこの場にとどめておくための言い訳や口上や手段がとめどなく浮かんできた。ときどきそういうことがある。何かのきっかけで、思考が突飛な回路をつくってものすごいスピードで回り始めるんだ。そんなときはただ成り行きに身を任せるしかない。流れを堰き止めるとろくなことにならないからね。

 このときのきっかけは少女のしぐさだった。きっと少女の言葉に嘘はない。だが、瞳の動きや絹越しの息づかいにどことなくやましさのようなものが感じられた。そうした印象の正体まではわからなかったが、動揺を誘って少女につけ入る自信ならあった。

 「そっか、それなら一階のパン屋さんで待たせてもらうことにするよ」と俺は言った。

 「それは良くない」少女は目を伏せて呟いた。「あそこにはテーブルも椅子もないから」

 「不愛想なおやじさんだったけど、頼めばスツールくらい出してくれるだろう。店で買ったブレッツェルを食べるあいだだけなら、文句は言えないんじゃないかな。それはそれとして、冴絵さんが通ったら僕にわかるかな?」

 少女はもう一度俺の顔を見上げた。相変わらず怪訝そうに眉を寄せていたが、その目からいつのまにか迷いのようなものが消えていた。

 「無理ね」彼女はふっと息をついて緊張を解いた。「あの人は裏手からまっすぐにこの部屋まで上がってくるから店の中からじゃ見えないわ。それにあなた、黒後冴絵に会ったことないんでしょう? 普段のあの人はどこにでもいる普通のおばさんだから、ぱっと見ただけじゃきっとわからないわ。オーラってものがないのよ」

 そう言いながら彼女は顔を覆っていた黒いスカーフをくるくると外していった。その様子はまるでミイラのコスプレイヤーが自分で包帯を解いていくのを目の当たりにしているような、どことなく居心地の悪い光景だった。まず栗色の長髪を簡単に束ねたポニーテイルが露わになった。前髪は眉毛の下あたりでまっすぐに切りそろえられている。瞳の色は透きとおるようなブルーだが、肌は褐色なので中東かアジアの血が混じっているのかもしれない。頬骨の上あたりにごま粒みたいなそばかすがいくらか見える。頬と顎のラインがシャープなわりに鼻が丸くて大きすぎるような気がしたが、それは全体としては彼女の利発で賢しい印象にある種の柔和さを与えていた。にこりともせず俺の顔を見上げる表情にあどけなさが残っていた。外国の女性の年齢を推定するのは難しいが、俺はひとまず16歳くらいと見当をつけた。

 「驚いた? これ、とくに必要があってつけてるわけじゃないから。訪ねてきた客の相手をするのが面倒なときにひょいと巻くの。ほら、あの人って有名人でしょ? だからお近づきになりたい野心家や失礼なビジネスマンがたくさん訪ねてくるのよ。それと、能天気で夢見がちな美大生もね」

 「いや、驚きはしなかったさ」俺はペティナイフみたいに軽妙な彼女の皮肉を首をすくめてやり過ごしながら応えた。「頭に角でも生えてるんじゃないかって、少しひやひやしたけどね」

 「そういうつまらない冗談、嫌いじゃないわ」たいして面白くもなさそうに彼女は言った。「夕方には戻ってくるはずだから、それまで部屋で待っているといいわ。コーヒーくらいは淹れてあげる」

 パン屋のおやじか、黒後冴絵か、どちらかの要素が関心を惹いて、彼女は俺を家に入れる気になったらしい。もちろん完全に警戒を解いたわけじゃない。この饒舌な少女のキャラクターは彼女の2枚目の仮面なんだろう。しかしまあ、性根の歪さなら俺だって似たようなものだ。

 「私の名前は黒後ハル。『雲晴るる 原子のわらべ 岸にたつ』の晴よ。さあ上がって、古株友也」


 外観のちぐはぐな印象に比べれば、部屋の中はさっぱりとしたものだった。コンクリートで修繕された真新しい壁。遠い昔にニスの剥がれおちたフローリング。古い建物をリノベーションした家屋にありがちな強調されたコントラストの上に、イケアなんかでよく見かけるレディメイドなテーブルとソファが並べてある。想像力を放棄した漫画家がオフィスカタログを眺めて描いた応接間みたいだった。

 彼女はコーヒーを淹れに部屋を出る前に、ふと思い出したように部屋の明かりをつけ、窓のブラインドを下ろしていった。俺は革張りのソファに腰かけ、部屋の中をぐるりと見まわした。とりたてて興味を惹くものはなかった。ステンレスの支柱に木の板を載せた3段組の棚に、日焼けして端のよれたファッション誌と、自立しそうなほど分厚いドイツ語の専門書が並んでいる。テーブルの上のティランジアは、丸いガラスのテラリウムの中で不思議な形の赤い花をつけていた。

 隣の部屋からピアノ協奏曲が聴こえてきた。彼女がダイニングかどこかのオーディオのスイッチを入れたんだろう。音量が小さくてよく聴こえなかったが、たぶんモーツァルトの12番だ。

 黒後晴。そう彼女は名乗った。しかし黒後冴絵に娘がいるという話は聞いたことがない。そもそも独身のはずだ。もちろん世間に公表していないだけという可能性はあるが、あの詮索好きな連中が隠し子疑惑なんてゴシップを放っておくはずがない。

 ほかにもいくつかの筋書きが考えられた。たとえば彼女は黒後冴絵の弟子で、「二代目黒後」を就任したという説。もしくは彼女は黒後冴絵の養子で、世間の目をごまかしながら二人でひっそり暮らしているという説。さらには、ただ俺をからかって言ってみただけという説。

 俺はため息をついてソファに身を沈めた。どの仮説もまったくばかげてる。彼女が本当は何者であるかなんて、どうでもいいことのような気がした。彼女が黒後晴と名乗るんなら、そう呼んでやればいい。誰が考えた名前か知らないが、なかなかセンスがいいじゃないか。長く暗い夜が明けて、黒い空が抜けるような青に取って代わるヴィヴィッドなイメージが想起される。語呂も語感も悪くない。
 むき出しの蛍光灯が眩しくて目を閉じると、鈍色の楕円が焼きついて瞼の裏に浮かんだ。

 黒後晴、か。

 「なに?」

 ふり返るとドアの前に晴が立っていた。マグカップと陶器の大皿を載せた丸いトレーを抱えて少し首をかしげている。俺は無意識にその名前を呟いていたらしい。二つのマグカップからは湯気があがり、コーヒーの香ばしい匂いが部屋を満たした。かすかに聴こえるピアノ協奏曲12番は、第二楽章の音楽的ピークにさしかかっていた。

 「そうしていると、日本のファミレスの学生バイトみたいだな」と俺は言ってみた。

 他意はない。冷やかしでもお世辞でもなく、ただ思ったことを口にしただけだった。俺は無意識に彼女の名前を呼んでいたことに少なからず動揺していた。だからたとえ意味のない台詞であっても、自分の口が自分の意志で動いて言葉を発することを確かめたかったんだ。

 晴はコーヒーのカップと陶器の皿をテーブルの上に几帳面に並べるといったん部屋を出て、リッツクラッカーの大箱を抱えてすぐに戻ってきた。妙なことを言って気を悪くしたかとも思ったが、まるで何も聞こえなかったみたいに相変わらず無表情のまま、クラッカーを皿に盛り、俺のはす向かいのソファに座った。二つのマグカップにはそれぞれ不思議な生き物の油絵がプリントされていた。彼女の側には炎の鬣をもった白い馬。俺の側には夜の牧場で草を食む単眼の牛。マグカップ自体は安物だったが、その絵には何とも言えない生々しさがあった。

 「考える必要のないことで頭をいっぱいにしてると、考えるべきことに集中できない」

 晴の話し方は、いつの間にか玄関で会った時のたどたどしい口調に戻っていた。鉄格子のように固く真剣な眼差しで俺を捉えながら、その瞳は同時にどこか遠い惑星の井戸の底を覗いているようでもあった。

 「うん、そうかもしれないな」

 彼女の言う"考えるべきこと"が何を指すのかわからないまま、とりあえず俺はうなずいた。もしかすると彼女は、周囲の評価を気にして上手く絵を描くことができなくなった俺のことを慰めてくれていたのかもしれない。それとも、俺が第一印象で彼女に抱いた印象を見透かしていて、そのことで俺を責めていたのか。


☆☆☆


 「いずれにせよ、重要なのはその言葉の真意じゃない。俺がその言葉を真に受けて、教訓とし、迷える魂のよすがとすることで、今日このときまで曲がりなりにも芸術家として食うことができているという事実だ」

 そう言って友也は残った赤ワインを飲み干した。結露したグラスの水滴が唇の端からこぼれて、喉をつたって白いTシャツの襟を濡らした。

 始まったときと同じく、友也の話は唐突に終わった。

 「ちょっと待って。それでけっきょく、黒後冴絵には会えたわけ?」

 私は食い下がった。いくら、アーティストへの取材は気長にすべし、といったって限度がある。これだけ時間をかけてわけのわからない話を聞かせておいて、肝心のエピソードはおあずけなんてあんまりだ。それに、余計な詮索ばかりで語られていないストーリーが多すぎる。パン屋の店主はいったい何者なの? そして黒後の娘とはどうなったの? ハルだかハレだか原子の子だか知らないけど、コーヒーを二人分淹れてきたんだから、その女の子は友也と何か話をしたんでしょう? 炎の白馬? 一つ目の牛? 聞きたいことなら山ほどあった。でも、

 「うん、まあ。それはまた今度にしよう」なお食い下がる私を煙に巻くような調子で友也は言った。「少々込み入った話になるからな。寄せ集めの個人がいかにして家族となり、どれほどの手間を費やしてささやかな家庭を維持してきたかを語らないことには、その破綻について話すことはできない」

 黒後家の崩壊。

 友也はほとんど聞こえないくらい小さな声でそう呟いた。

 本当にそれきり、この話は終わってしまった。友也はカウンターの隅で居眠りしていた奥さんを呼びつけて勘定を払い、遠慮するその手に無理にチップを握らせた。そして私たちは店を出た。

 冷ややかな風に、目に見えないかすかな雨粒が舞っている。この分だとそのうち雪になるかもしれない。空には月も星もなく、街にはただ照らされるべき鮮やかな闇たちがうごめいていた。

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