プルースト現象と記憶について

 プルースト現象という言葉を初めて耳にした、ないしは誰かが創り出したのはもうずいぶんと前になるだろうが、その現象自体は以前から認識していたという人は少なくないだろう。私もそのひとりだが、嗅覚や味覚以上により鮮明に記憶ーーそれも無意識下に沈んで半ば眠っている、能動的に思い出すことは到底不可能だと思われるようなーーを呼び起こす引き金がふたつほどあることに、私はいつからか自覚的になり、そしてその感覚の虜になった。そのふたつの引き金とは、湿度と音楽であった。

 突然だが、最後にざあざあ降りの雨を見たのはいつだっただろうか。今冬は雨がほとんど降っていない。乾燥した日がつづき、やがてそのことすら当たり前だと思うようになり、毎日の天気予報は気温くらいしか気にすることがなくなっていた。そんな折だからか、関東地方に雪の予報が出た先日、外気に珍しく湿気が混じっているのが感じられ、家を出てそれに触れた瞬間に私はなぜだか「スパイスの効いた美味しいチャイを飲みたい」と強く感じ、誰しもがこう感じているのだろうか、と少し考えたが、結論、これは例のプルースト現象なのだろうと思った。

 10年ほど前、大雪が降った冬の日、私は行きつけの小さなインド料理屋でチャイを飲んでいたのだ。素朴だが人々の活気に満ちた西東京の街にしんしんしんと雪が降り積もるのを眺めながら、当時の私はまだ学生で、今後の自身の人生がどういった道筋を辿っていくのかなど見当もつかず(私は社会生活に対する意識の熱量の少ない不出来な学生だった)、当然地に足は着かず、それゆえにだろうか、小説の中に迷い込んでいるかのような、不確かな足場の上でくつろいでいるかのような、青年期の未熟さと感傷とが作り出した不可思議な世界(それは今から思えば何も不可思議ではない現実の世界なのだが)での日々を送っていた。そういった当時の世界での居心地が、家の玄関を出てなんとなく「今日はチャイを飲みたい気分だな」と感じた、というたったそれだけの出来事から、埋れていたものが引っ張り出されるように、部屋を片付けていて偶然にみつけてしまった過去の書簡を夢中になって読み返すときのように唐突かつ急速に、呼び起こされたのだった。

 そこにはなつかしい温かさがあった。当時よく聴いていたジム・オルークのアルバムや、付き合い始めたばかりだった恋人のことや、そのデートで行ったレストランや、旧友たちと集まって映画を観ながら飲んだ日のことや、最寄り駅のホーム、家の近くのコンビニ、バイト先の喫茶店ーー当時のいくつかの情景が、数ヶ月前の出来事のようにはっきりと思い出された。それらの記憶は、時が経って荒んでしまった今の私の心に小さな火を灯すようであった。この温もりが心の内に常にあってくれたらどんなによいだろう、と思った。しかし一方でそれらは記憶に過ぎない。そしてそのどれもが、今では年に一度も思い出せないものばかりだ。思い出さないのではない。思い出せないのだ。その温かさを無意識に知っていながら、自発的には思い出すことができない。頭をひねれば、自身が体験してきた出来事を脳の内で再生することはできるだろう。しかしその映像はモノクロで、そこには感触がない。確かな感触があることで、初めてその温もりを思い出すことができる。それには色が必要だ。そしてその色は、嗅覚や味覚、湿度、そして音楽などの助けと、それらの眠ってしまった記憶への偶然の働きかけを得ないことには、決して再現できないのだろう。

 その小さなインド料理屋のチャイはとても美味しかった。あれからいくつかの店のチャイを飲んだが、あの味に並ぶものには出会えず、その店もついに閉店してしまった。高円寺に二号店があるというが、今は東京を離れてしまったため気軽に訪れることはできない。果たして本場インドで飲むチャイは、あの味なのだろうか。そのとき私は、遠いインドにいながらにしても、青年期を過ごした東京の景色を思い出して、過ぎ去ってしまった日々の温もりと現在との間の遠ざかっていくだけの距離に、やりきれない思いを抱えるのだろうか。インドへの渡航が再び許可されるときまでそれはわからないだろう。しかし遠くへと旅立つその前に、私にはまだ、もっと近く、この日本で過ごした無数の年月の中に、思い出すべき温もりが数多くあるのだろう。それはすでに過ぎ去って冷え切ってしまったものかもしれないが、それでもきっと心の内に小さな火を灯すものであるにちがいない。

#プルースト #失われた時を求めて #記憶 #東京

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