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浪花放浪

それは深夜の気の迷いだった。だが、人の心というのは多かれ少なかれ毎晩迷っているのだと思う。それを行動に移すか移さないかの違いがあるだけだろう。そしてその夜の私は、たまたまその気の迷いを行動に移したにすぎない。

関東から大阪までは思ったよりも遠かった。東海道を、ひたすらに自動車で行く。学生時代にデートをした思い出深い横浜を一瞬で通り過ぎ、箱根を越え、広い海を望む一本道を横断した。静岡の街を一目見たくなったので車を停めたが、三十分ほど散歩をするとまたすぐにエンジンをかけた。初めて見たその街はいかにも城下町といった雰囲気で、夜道は湿って光っていた。

名古屋にさしかかると、やはり少し街を見ておこうかというマトモな考えが一瞬頭をよぎったが、長時間の運転の疲れがそれを却下した。もはや車を停めることすら面倒くさい。日が昇る前に一気に大阪まで行ってしまうことにした。名阪道路の荒れっぷりなど予想だにせずに。

名古屋と大阪を繋ぐ深夜の名阪道路の車列の間を縫う無数のヘッドライトは、渋滞を器用にすり抜けるインドのドライバーを思い出させた。ただひとつ異なるのは、そのスピードが高速だということだ。私の神経はすでに疲弊しきっていたが、そこには当然、休まる暇などなかった。フラフラの状態でフリーウェイから下りると、コンビニに寄ってあまり美味くないコーヒーを買い、飲んだ。美味かった。

京都の山奥のサービスエリアで二度目の仮眠を取ったが、よく眠れず、またすぐに出発した。名阪とは打って変わって、そこから大阪市内まではひたすら穏やかな道が続いていた。車内を照らす日差しは柔らかく、眠くならないのが不思議なほどだったが、今思えばそれは目的地が目前に迫っていることの証拠だったのだろう。運転に集中していた私にはそんなことを考える余裕などなかったが、確かに高揚していた。すぐそこに見える大阪の街に。

数日ほど滞在する予定だったので、ミナミやキタといった市街地から数駅ほど外れたあたりで安い駐車場を探した。驚くことに、ミナミにほど近い天王寺から三、四駅ほど東に行けば、一日の料金が千円以下の駐車場が見つかった。初めて感じた東京との違いはそれだった。些細なことではある。だがそれはよく考えれば衝撃的なことだった。

次に感じた違いは駅にあった。というより、正確には駅で耳にした学生の会話に。”イコカ”を持たない私がスイカをチャージしようとしていると、隣の券売機から制服を着た女学生たちの話し声が聞こえた。

切符まとめて買いますよー。えーありがとう。じゃあその切符代で、今度焼肉奢りますわー。あーそれでええですよー、って切符代じゃ焼肉食べれませんて! 焼肉やっす。

軽妙洒脱とはこのことだなと、歳が十も離れた女学生に私は感心していた。

電車を降りて新世界の街に出ると、ようやく腹が空いていることに気がついた。道中でしばらく何も口にしていなかったのだ。見上げるとデカい蟹があった。蟹か......と首を振ると、今度は串揚げ屋の看板が目に入った。串揚げか......

結局、私は関東でも馴染みのある餃子の王将の暖簾をくぐっていた。

カウンターの一番手前の席に腰を下ろしてメニューに目を通していると、小柄な若い女性店員が注文を伺いにきた。韓流アイドルのような顔立ちの可愛らしい店員で、それがまた旅情をくすぐった。少し悩んで天津麺を頼むと、その可愛い店員が厨房の方を向いて声を張り上げた。

イーコーテンシンラーイー! そんな感じの謎の言葉をサラッと言うと、彼女はまた諸々の作業へと戻った。胸の内の旅情は揺れて踊っていた。

この可愛らしい女の子は日本語以外の言語も話せるのか? 外国語を話す女性に対するフェティシズムを持つ私は心を奪われていた。それはおそらく中国語だろう。なぜならここは中華屋だから。遠い海の向こうの嗅いだこともない空気に飲まれる錯覚に陥りそうになった。願わくばそのまま錯覚に溺れてしまいたかったのだが、私はそこまでの感受性は持ち合わせていなかったので、代わりに眼前に提供された天津麺に意識を注いだ。

天津麺はやたらと美味かった。後で調べて、関西のそれは酢の代わりに醤油ベースの味付けが一般的であることを知った。市内に着いてからまだ小一時間だったが、水が合いそうな街だと思った。旅先の第一印象としてそれ以上のものはないだろう。

もうひとつ、後で調べてわかったことがあった。それは店員の彼女の話していた中国語のような言葉が、中国語ではなかったということだ。その言葉は、餃子の王将が独自に開発した王将用語と呼ばれるものだった。言語の開発って......それはまさに私の好奇心のど真ん中だった。いや、むしろインハイだろう。思いっきり引っ張りたい。

旅先で見知った店に入るなんて愚かなことだと思っていたが、そんな常識さえも大阪の街は出会い頭に吹き飛ばしてくれた。そしてそれから、私はキタにミナミに吹かれて飛んで宙に舞うことになるのだった。

着地してしまうと、そこはまたいつもの平凡な関東の街だった。

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