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老人と酒

 ロンドン市内北西部、カムデン・タウンから数駅ほど北西に下ったところの街で暮らしていた頃、一時期、住んでいた煉瓦造りのフラット(アパートメントに相当する集合住宅)の近くに流しが現れることがあった。それは決まって週末の深夜で、彼はいつも小一時間ほど歌うとどこかへと帰っていく様子だった。最初は酔った人が気まぐれに歌っているのだろうと思っていた。

 彼がそこで歌うようになってから数週間ほど経ったある週末の夜、一服をしようと部屋で一本巻いていると、例の歌声がかすかに聞こえ始めた。その内容までは、部屋の中にいては聞こえない。私は綺麗なラッパ型を仕上げると、部屋の窓際へと向かい、火をつけ、窓を外に開けた。

 四階の窓から煙を吐きながら下を覗くと、向かいのセインズベリーの前にあるベンチに、アコースティックギターを抱えた老人が座っていた。目をこらすと、その横にはビールのような瓶も見える。おそらく彼が飲んでいるのだろう、歌声にはそれと分かる酒の臭いがあった。車通りの少ない通りに、歌と演奏が響いていた。私はそのとき初めて彼の歌をはっきりと聴いた。

 その金曜日の深夜の一幕を、私はとっさに神に感謝した(非キリスト教徒も金曜日に限っては神に感謝の意を表明しがちだ)。彼が歌っていたのはThe Shirellsの(そして後にThe Beatlesによってカヴァーされた)"Baby It's You"で、それは私の好きな曲だった。そして彼の歌声は、その曲にとてもよく合っていた。

 週末の深夜の街はずれで酒を片手に行われているたった一人の老人による路上ライヴに、私は聴き入ってしまった。その酒に焼けた歌声は飄々としつつ、しかし確かに、彼自身の実際の感情を伴ったものだった。それこそがこの曲を聴かせる秘訣であることを、彼は知っていた。もしくは、そういう曲だからこそ歌いたかったのかもしれない。酒に浸った、金曜日の真夜中に。

 彼はその後も酒を口にしつつ、数曲ほど気持ち良さそうに歌うと、薄暗い通りをどこかへと帰っていった。街灯に照らされたセインズベリー前は、元の人気のない静かな街はずれの一角に戻っていた。私はもう一度、煙草を巻き始めた。そして巻き終えると、ライターと部屋の鍵と、それからポンドの小銭を数枚ポケットに入れ、煙草を耳に挟んで、階下へと降り、下の売店で、深夜帯は販売禁止となっているビールを常連であることにかこつけて一缶購入すると、紙袋には入れず、先ほどまで老人が歌っていたベンチに座って、煙草に火をつけてから、開けた。

#酒 #イギリス #ロンドン #thebeatles

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