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創作大賞「ドラゴン・シード」#22

22話

 「ジン……ジン、そろそろ起きて。そして、お姉ちゃんに伝えて……」
 
 懐かしいあのリビングで、サシャに揺り起こされてハッと目を覚ますと、そこはなぜか深海の底で、ジンは遥か遠くの海面からしんしんと降り注ぐ白骨の雪に殆ど埋もれていた。起き上がろうとするが、身体がピクリとも動かない。仕方なしに、かなたの海面から降り注ぐ柔らかい光を見上げるしかない。しかし──
 ここは案外心地いい……。
 静謐で穏やかで永遠が約束された安寧の地。
 もう間もなく全身が雪に覆いつくされると、自分もあの白い道の一部になるのだろう。それも悪くない。
 と、明るい海面から、見覚えのある白い小鳥がジンに向かって舞い降りてくる。それは次々にジンに舞い降りると、胸の中に吸い込まれるように溶けていく。しかしそれは、全身が焼けつくような激しい苦痛を与えた。
「うああっ……」
 のたうち苦悶しながら思わず身を起こすと、身体を覆いつくそうとしていた骨の雪がぶわりと舞い上がり、ジンの永遠の安寧は損なわれてしまった。
 次々に舞い降りてくる小鳥から逃れるように、ジンが仕方なく海面に向かって泳ぎ出し、明るい陽光できらめく海面が視界一杯になったとき、だしぬけに、今度こそ本当に目が醒めた。
 長いこと息を止めていたようで、突然肺を一杯にした空気のせいで、激しい咳の発作に襲われた。背中を丸めてゴホゴホと咳き込み、それがようやく収まると、そこには、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったケイトが自分を見下ろしていた。それを見た瞬間、この前後の記憶がいっぺんに蘇った。
「ケイト……」
「ジンッ!」
 ケイトはジンの首っ玉にしがみつき、更に大声で泣いた。
 なんとかケイトを受け止めながら、ジンはそんな自分たちを見守るイヴに気づいた。
「ケイト、よくやったわ。ヤミの本当の名前はね、ヨモツヒラサカというの。あなたは神様にもできなかったことを成し遂げたのよ」
「え……?」
「……そうか、黄泉がえりか」
 ジンが言った。
「ふふ、あなたはすでに滅びた小さな島国の神話まで知ってるのね」
「俺の実の両親の国なんだ」
 そしてジンは、ようやくイヴの変わり果てた姿に気づいた。
「イヴ? あんたずいぶん……」
 イヴは普段より三十歳以上も老けて見えた。目尻にしわが寄り、形のいい唇の両側には深いほうれい線が刻まれている。変わらないのはアメジストの瞳だけだ。そして、ジンの上着に包んだなにかを抱えている。
「おばさんになったと言ったら、ケイトに頼んでガツンとやってもらうわよ? 前にフレーネに殺されかかったヤンと、あなたたち二人分の精気をいっぺんに分けたらこの有様よ。でもまた、男たちから精気を戴いてすぐに元通りよ」
 ふざけたようにそう言うが、それでもイヴは美しかった。
「そうだったのか……」
 そして、ケイトがいきなりジンの胸ぐらを掴んだ
「ジン、もう二度と私のために命を懸けないと誓え!」
 ジンはそんなケイトを見ながら、嬉しいような、悲しいような、愛しいような、一言では言い表せない複雑な気持ちで胸を一杯にして、とりあえず、自分のシャツでケイトの顔をグイグイ拭いてやりながら言った。
「そりゃお互い様だろ? おまえなんかいつも、俺以外のために命を懸けるじゃないか」
「うぷ、やめろ! もう子供じゃないと何回言わせれば……」
「あなたたちはライフスタイルを間違えてるのよ」
 イヴが言った。
「ジン、ケイトはね、あなたをヤミの中から救うために、サシャの魔法を使ったのよ」
 イヴのその言葉に、ケイトがハッとしたように、シャツに大きく血の滲んだ腹を両手で隠した。
 一拍おいて、その意味に気づいたジンは顔色を変えながらケイトを見た。 「……おまえ」
「ち、違う! これはヤミの中で怪我をして……」
「おまえ、自分が何やったかわかってんのか!」
「あなたが人のこと言えないでしょう?」
 イヴがあきれたようにジンに言った。
「つまりあなたたちは、二人そろって命の危険が及ぶような仕事には向かないってことよ」
「なるほど……」
 ジンが妙に納得したように唸った。
 そのとき、イヴの抱えているものから弱々しい声がした。
「ああ、よしよし」
「それは俺がヤミの中で抱いてた赤ん坊? 実在したのか……」
「ふ、実在したもなにも……」
 イヴがジンの腕にひょいと赤ん坊を預けた。
「おっ……」
「あなたはヤミの中で、後生大事にこの子を懐に抱えていたのよ」
 ジンの上着に包まれていたのは、丸々と太った赤い瞳の赤ん坊だった。虹彩は縦に割れ、耳の先は尖って身体のところどころに鱗がある。
「え……、まさかフレーネ?」
「そうよ。ヤミ、いいえ、黄泉の中でフレーネに混ざったドラゴンワームのほとんどが喰われてしまったの。まさかこんなことになるなんて、私も思ってもみなかった。ドラゴンはね、そもそもが希少種だけど、卵から産まれるんじゃなくて、あのドラゴンワームが生き物を変容させて誕生するのよ」
 驚くケイトとジンに、だからドラゴンは、元になる生物によって実に多種多様なのだとイヴが続けた。
 しかも、寄生された生き物でもその変容に耐えられるのはごくごく稀であり、半ば伝説化していたので、イヴですらこの目でまともに目にしたことがないと言った。
「やっとこの目で見れると思ったのに、よくも邪魔してくれたわね、二人とも」
「信じられない……」
 ジンが愕然と腕の中の赤ん坊に触れた。
「そうね、この子は信じられないことに、黄泉の中でもう一度生まれ変わったのよ。おそらく、過去をどれほどさかのぼってもこんなことは前例がないと思うわ。だから私を邪魔したあなたたちを許してあげる。面白いものを見せてもらったもの」
 そう言って、イヴは艶やかに笑った。
「ジン、赤ん坊に罪はないよな?」
 ケイトがすがるように言う。
「……ああ」
「あぶぅ……」
 赤ん坊はあどけない瞳でジンを見上げると、何を思ったかニッコリと笑った。こちらまでつられて微笑んでしまうような無垢な笑顔だ。
「あなたなら、すぐ取り込まれて黄泉の一部になっていたと思うわ。黄泉の興味が最初にフレーネを食らったのね。その幸運と、危ういところで助けてくれたケイトに感謝なさい」
「違う」
 ケイトが言った。
「危ういところで助けてくれたのはサシャだ。サシャは、最後に私を救って、またヤミに取り込まれてしまった……」
「それも間違いよ」
 イヴが言った。
「ケイトに刻まれていた魔法は小さな島国の呪術よ。私にも読めないけど、それはその国の古語で書かれた呪法だと思う。黄泉比良坂ヨモツヒラサカは、古い古い神話に出てくる冥界の入り口なの。あなたの妹は、どうやってか、黄泉の力と自分の魂を魔石に変えて利用し、あなたを救う魔法を編み出したのよ。おそらく、この魔法を使った時、黄泉が偶然すぐ近くにいたんだと思うわ」
 確かに、あの時の作戦は黄泉の好奇心を刺激してもおかしくない戦いだった。
 ケイトがシャツの上から自分のタトゥに触れた。
 そんなケイトに、ジンが抱いていた赤ん坊をケイトに抱かせた。
「ほら」
「わ」
 不器用に赤ん坊を抱えながら、ケイトが柔らかい頬に頬を寄せた。
「フレーネ、ひどい記憶はみんな忘れて、今度こそ幸せになろう」
 赤ん坊がきゃっきゃと笑い声をあげる。
「残念ね。その子は私が連れてゆくわ。やっぱりこの子は、この世界の生き物とは言えないもの」
「え……」
 ケイトが一瞬そんなという顔をした。
「人は、自分と違うものを嫌がるわ。わずかに残ったこの子の異質さが、この先どう出現するかあなたにわかる? この子は多くの人の目を引くわ。そしたらあなたは、この子を守ってあげられる?」
「そ、それは……」
「まぁ、こう見えて私は、長い人生の中でニンゲンの子どももたくさん育ててるのよ。自分で産んでないだけで」
「そ、そうなのか……」
「ヤンは昔、うちで働いていた女の子が産んだ子よ。かわいそうに、母親はその時死んでしまったから私が育てたの。だからヤンは、私のことをマムと呼ぶでしょう? ビッグクラッシュより百年ほど前のことだけど」
「「ええ!」」
「長年私と一緒にいると、私の魔力に影響されて、ちょっと人間離れしちゃうのよね」
 なんでもないことのようにそう言って、イヴはうふふと笑った。
「さ、その子を渡してちょうだい。永い永い時を生きていると、もうこのぐらいしか楽しみがないの。大抵は退屈な人ばかりだけど、稀にあなたたちやこの子のように面白い人間と出会えるわ。だからこの趣味だけはやめられない」
「……」
 ケイトが名残惜しそうにイヴの手に赤ん坊を返した。そして、思い出したように自分の髪に結んだブルーのリボンをとって、そっと赤ん坊の手首に結んでやった。
 赤い目をした赤ん坊が、きゃっきゃと笑った。
「カーラという優しい女性がいて、その人がフレーネに、またシフォンケーキを食べにおいでと伝えてくれと……」
「わかったわ」
「イヴ、あんたに詫びと礼を言いたい。いろいろと誤解をした挙句、ひどくかき回してしまってすまなかった。そして、俺たちや様々な人を助けてくれて心から感謝している」
 ジンが手を差し出すと、イヴはそれを握り返しながらジンに短いキスをした。
「よしてよ。長いこと生きていると、この世を席巻しているニンゲンとは、仲良くやっていく方が得なのよ。時には容赦なくニンゲンから奪うこともあるわ。でも、精気を吸わずに一方的に与えたのはあなたとケイトが初めてよ」
 そしてイヴは最後に、「ところでケイト、ここはどこ?」と言った。
 広大な工場の廃墟跡だった。倒壊した古い工場の屋根が落ちくぼみ、高い塔に這う錆びついたねじれたパイプが生き物のようにのたうっている。おそらく、ビッグクラッシュ直後に打ち捨てられたままなのだろう。ジンは、ヤミの中で彷徨った廃墟の町に似ていると思った。
「ああ、うちだ」
「え?」
 イヴとジンがきょとんとケイトを見る。
「そこの倉庫の中にテント張って住んでる」
「そうなの……」
「おまえこんなとこに住んでたのか」
 ジンが、この荒廃した土地を複雑な気持ちで見渡しながらつぶやいた。 「じゃあ私は行くわ。この子にはミルクがいるものね」
 イヴが赤ん坊のフレーネを抱いて行こうとした。
「イヴ! あんたとフレーネにまた会える?」
 ケイトが言った。
「そうね、ケイト。そうできればいいわね」
 そしてイヴは、廃倉庫の壁に向かって聞いたことのない詠唱を唱えてチューブの入り口を開けると、フレーネとともに去っていった。
 手を振るイヴの笑顔が穴の奥に消えるとともに、チューブも閉じてしまった。
 
 二人きりで残されるとジンが言った。
「ケイト、刺したところを診せろ」
「え、いいよ、もう治ってる」
 ケイトが血の滲んだシャツを手で押さえた。
「診せろ」
「……わかったよ」
 ケイトがシャツをめくると、右の脇腹にうっすらとすでに赤い線になっている刺し傷が確認できた。だが、その胴を取り巻いているはずのサシャのタトゥがきれいさっぱり消えていた。
「え……? そんな……」
 ケイトが愕然とタトゥの消えた腹を見つめた。
「サシャは、今度こそ本当に黄泉に持っていかれた?」
「サシャはやっと魂を開放して、黄泉比良坂を通ってその向こうへ旅立ったんだ」
「え……?」
「黄泉の中で、サシャにおまえに伝えてくれと言われた。二人は私のことを忘れないと思うけど、私はあなたたちを忘れようと思うと。そして、次の生に備えるために旅立つんだと」
「次の生……?」
「そう。俺のルーツだった民族は、輪廻転生を信じていた」
「……」
 ケイトの目から、再びぽろぽろと涙があふれ出した。
 ジンが、様々な思いを胸にケイトを抱きしめた。
「……ジン」
「ん?」
「風呂に入った方がいいと思う」
「え、匂うか?」
 ジンが慌ててケイトを離し、自分のシャツをつまんで匂いを確かめた。
「ケイト、シャワー貸してくれ」
 順番にシャワーを使って全身に絡みつくヤミの穢れを洗い流し、ケイトが着替えてあとから出てくると、ジンが倉庫の前の樹を見上げていた。
「桜だ……。前に住んでたアパートにもあったよな? もっと貧弱だったけど毎年ちゃんと花が咲いてた。この木があったからここに越してきたのか。サシャが好きだったもんな」
「この世でそんなこと知ってるのはジンだけだ……。この花びらが、ヤミの中で私たちをここへ導いてくれたんだ」
「そうだったのか……」
「……そういえば、私もサシャの声を聞いたんだ」
「なんて言ってた?」
「……行けと」
「そうか……」
「うん……」
「ケイト、サシャの料理は俺が教えてやる」
「うん」
 まだ二分咲きの桜の木は、満開の予兆を枝先に宿らせている。
 うんと伸びをしてジンが言った。
「じゃあ、俺はそろそろ帰るよ」
「あの、ついて行っていいかな?」
「……え? それは、おまえ、念のために聞くけどさ、飯を食わせろとかそういうことじゃないよな……?」
 ジンが用心深く目を細めて聞いた。
「……違う」
 ところが、「あー、クソッ」と頭をかきむしりながらジンが悔しそうに言う。
「でもダメだケイト……」
「え?」
「ドラゴンワームだ。俺の中にはまだドラゴンワームがいる。おまえにまた感染させるわけにいかない」
「ああ」
 なんだそんなことかと、ケイトがアーミージャケットのポケットの中から何かを掴みだすと、それをジンの手の中にバラバラと落とした。それは見慣れた紫の石だった。
「え、これイヴの?」
「そう」
「いつの間に?」
「昨日の朝、イヴにホテルのベッドでキスされてたじゃないか」
「ああ!」
 あの時イヴは、ジンの中のドラゴンワームを吸い出していたのだ。
 イヴは何から何まで一枚も二枚も上手だった。
「まぁ、それでもジンが再検査を待つというなら……」
 ジンが思わずケイトの腕を掴んだ。

 二人でジンのコテージに帰ると、ジンはとりあえず自慢の薪ストーブに火を入れた。 「このストーブいいね。火を見ると安心する」
「ふ、おまえキャンプの焚火の前でもいつも同じこと言う」
「そう?」
 元々、手元だけ見えればいいというような最低限の照明しかないので部屋は薄暗い。充電式のLEDランプがいくつかあるだけだ。今日は月が明るいので、下手をすれば外の方が明るい。
 ジンは薪にしっかり火がついたのを確認すると、隣で興味深そうに手元を見ていたケイトの腕を掴んで抱き寄せた。
「わ……。ジ、ジン…ま、まっ…て……」
 ジンはそれを無視して背中に回した腕に力を込め唇を寄せた。
「俺はもう充分待った……」
 二人はお互いの肌の温もりを確かめ合い、感情が高ぶるままに相手を求め、またそれに応えてゆく。ケイトの腹を横切る大きな古傷に、もうサシャは宿っていない。今度こそ本当にサシャのいなくなった不幸を抱えながら、この半分壊れた世界で二人は始めるしかないのだ。その柔らかい傷跡にジンが口づけると、ケイトの指先がジンの左肩の古傷を撫でた。昔、キラーパンサーに食いちぎられた跡だ。
「これは……?」
 ジンはあの時の激しい痛みも苦しみもやるせなさも、今はもうどうでもいいと思った。
「……忘れた」
 抱きしめる腕にさらに力を籠め、もう何度目かのキスをする。
 長いこと、二人の間に横たわっていた激しい渇きが満たされ、震えるような悦びが二人を押し流していった。


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