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創作大賞「ドラゴン・シード」#14

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

14話

 亜種絡みの死人騒ぎで一時期客足が減ったものの、ナイチンゲールではまだそこここで、密やかで隠微な男と女の気配がある。客や女たちの要望に沿って複雑な館内を行き来する従業員たちは、気配を殺しながら行儀よく控えめにあちこちを巡る。
 政府からの娼館通り閉鎖の緊急事態宣言は、この時点でまだ発令されていない。
「こっちだ、こっち……さ、おいで……」
 ケイトが鳥籠を持って、白い小鳥に手を差し出している。
 建物の奥、目立たない二階の小部屋の前だ。扉の前に金のレリーフはない。今は誰もこの部屋を使っていないはずだ。
 ケイトは今朝のジンのキスで思い出したのだ。昨夜、ここで見たもののことを。
 床に倒れていたヤンに一斉に群がっていた小鳥たちナイチンゲール
 天井近くの壁に飾られた銀の止まり木に、人懐こい小鳥たちが何羽か羽を休めている。
 鳥たちが、いつもはかまってくれないケイトが、なぜ急に興味を持ち出したのかと、不思議そうに小首を傾げている。主人と同じ神秘的な紫の瞳が、好奇心で輝いている。
「おいで……」
 ちょこちょこと止まり木を横に移動しながら、羽を広げてバランスを取っていた一番端の小鳥が、お隣に押し出されてとうとうケイトの右手の人差し指に飛んできた。
「ごめんよ、おまえのこと、調べさせてもらうよ」
 小声でそう話しかけながら小鳥をそっと鳥籠に入れた。ここナイチンゲールの鳥籠には扉がない。ケイトが今持っている鳥籠は、ここへ来る前にバザールで買ってきたものだ。
 ケイトはこの鳥を、ジンに預けてセントラルの研究所に持ち込んでもらうつもりだった。できれば、酷いことはしたくない。だが、昨夜ヤンに起きていたことと、この店を拠点にもう何人も人が死んでいることを思えば、この小鳥を無視することはできない。なんといってもこの子たちは亜種なのだ。
 華奢な扉を閉めると、小鳥がまた不思議そうに小首を傾げた。
 籠を揺らし過ぎないようそっと赤い絨毯の廊下を歩き、階段を降りて店を出ようとしたとき、小鳥たちが一斉に、不思議な笛の音色で囀りだした。
 途端に何かに絡み取られたように身体が動かなくなった。
 ――しまった!
 イヴの姿が見えないので油断してしまった。
 虚ろな目のメイドが二人静かに近づいてきて、ケイトを両側から支えて歩き出す。この先にあるのはイヴの部屋だ。
 部屋に入るとイヴがケイトを迎え、「やあね、ケイト、昨日のドレスはどうしたの?」と言いながら広いウォークイン・クロゼットに招き入れられた。またもや着せ替え人形にしようというのだ。
「イヴ、やめろ……」
 イヴが今日選んだケイトのドレスはワインレッドで、スカートの裾を斜めにカットした可憐なものだ。腰のところでふわりと広がるひざ丈のスカートは後ろが長くなっている。メイドたちがあれよあれよという間にケイトを着替えさせてしまう。
「せっかく美しく生まれたのに、着飾ることに興味がないなんて罪よ、ケイト」
 腰の刀も腿に仕込んだナイフも同時に取り上げられてしまった。
 最後にイヴは満足したようにケイトを部屋に入れ、ドレッサーの前に座らせ、雑に結んだ髪を解いてブラシを使い始めた。
 部屋の隅ではヤンがカートに乗せた茶器に紅茶を注ぎ、意志に関係なく持ち上げられたケイトの手にソーサーを渡してくれた。
 そして、ドレッサーの後ろにあるソファではフレーネが眠っていた。
「フレーネ……? フレーネ!」
 ケイトが鏡越しに声を張り上げたが、フレーネはピクリとも動かない。 「フレーネは眠ってるだけよ、ケイト」
 昨日返した緑の石の豪華なネックレスがまた飾られた。
「どういうことだ? なんでここにフレーネが?」
 焦った口調とは裏腹に、ケイトは紅茶のカップを口に運んでいる。自分のその行動のちぐはぐさに、うなじが粟立つほど苛立った。
「イヴ!」
「静かにね、ケイト」
 途端に声が出なくなった。
「──⁉」
 イヴはヤンから紅茶のカップを受け取ると、一口お茶を飲んで言った。 「まったく、男と女がキスだけなんてどうかしてるわ。愛し合うより封印された記憶の方が大事?」
「……」
 ケイトは言葉が出ない。
「ふふ、普段亜種を魔法でやっつけることはあっても、治療以外使われたことがないから、あなたたちはみんな魔法に弱いわよね」
 確かにそうかもしれない。
「私もむかーし、リリスと呼ばれてたことがあるのよ。あなたと同じね」
 元はあなただと言いたいが、声が出ない。
 よく磨かれたドレッサーの鏡に、イヴの綺麗な横顔が写っている。ケイトの髪を結いあげると、イヴは満足したようにティーカップに手を伸ばした。
 小鳥たちは思い思いに銀の止まり木に控えている。
 先ほどケイトが捕まえた小鳥は、イヴが鳥籠を指でトントンとつついただけで、扉が閉まったままの籠からスイッとすり抜けて出てきた。
「――っ⁉」
 ケイトはなすすべもなく見守るしかない。
「私は長生きだから、ひどい記憶がたくさんあるわ。動物はシンプルだけど、ヒト同士の殺し合いが一番悲惨よね。友人知人、親子兄弟、恋人や夫婦。ヒトだけが愛を理由に殺しあう。できれば思い出したくもないけど……」
「……」
「悪い記憶ほど忘れないわ。人もね。なぜなら、生きていくためには危険を回避しなければならないからよ。二度と同じ過ちを繰り返さないためにね。私が人の精気を吸って永らえるのと同じように、そういうふうにできているの」
「……」
「魂を震わせるほど美しい記憶はわずかで、心を温める平和な記憶はすぐに忘れてしまう。ヒトは苦痛をしのぐことが生きているということなのかしらね?」
「……」
 イヴがケイトから紅茶のカップを受け取った。
「ケイト、あなたは、あなたの生きる意味を喪って、この先は何に生きる意味を見出すの? そもそも、生きることに意味なんかあるのかしら?」
「――っ⁉」
 どうやら今朝がたのジンとの会話を聞かれていたらしい。
 小鳥たちが止まり木の上で身じろいだ。
「マム」
 イヴがヤンの静かな呼びかけに、何かに気づいてふと顔を上げた。
「ああ、ふふ、あなたの魔法をキスで解いた王子様が、何かに気づいて慌ててここに飛んでくるわ」
 ――ジン?
 唐突に部屋の扉がバンと乱暴に開かれ銃を手にしたジンが飛び込んできた。
「ケイト!」
 そんなジンの視線の先では、優雅に紅茶のカップを手にしたイヴと、いつものように泰然自若としたヤン、ドレスアップしたケイトが、どういうわけかソファで居眠りしているフレーネの頭を膝の上にのせている。一見ごく平和な光景だ。だが、激しい違和感がジンの緊張を高める。
「……」
 部屋の隅にいるメイドが、ケイトの脇差しを手にして控えているのを見て違和感の正体に気づいた。ケイトが自分の愛刀をこの状況下で他人に預けるわけがない。ジンは腹を括ったが、イヴが一筋縄でいくとも思えない。
「いらっしゃい、ジン。突然血相を変えてどうしたの? 驚かせないで」
「ああ、イヴすまない、ちょっと気が立ってたんだ」
 ジンがまだピリピリしながら銃を懐のホルダーにしまった。だがボタンはかけない。そもそも、こんなものが役に立つのか――。
「今お茶を……」
 ヤンがそういうのを手で制して、ケイトに向かって言った。
「ケイト、緊急の報告があるんだ。イヴ、すまないが、少しケイトを借りたい」
「何かわかったの? なら私も聞きたいわ。クライアントですもの。その権利はあるわよね?」
 イヴがさりげなくケイトの隣に腰かけ、ケイトの膝で眠るフレーネの髪を撫でている。
「……亜種の正体が分かった」
 ジンが仕方なく口を開いた。
「あら、それは素晴らしいわ。なんだったの?」
「寄生虫だ。ミミックワームと名付けられた新種の亜種だ」
「ミミックワーム……」
 イヴがそれを聞いて謎の微笑を浮かべた。
 その時、一羽の小鳥がジンに向かって飛んできた。
 ジンがとっさに懐の銃で小鳥を撃った。
 乾いた銃声と、パッと無残にも空中で弾けた小鳥の羽が部屋中を舞った。
 驚いた鳥たちが鋭く囀りながら一斉に羽ばたいた。何羽か続けざまに撃ち抜いたジンは、その混乱に乗じてケイトの腕を掴んで引き寄せ、同時にイヴの額に銃口を当てた。
「動くなヤン。いくら神話級の魔物でも、45口径の銃弾で額をぶち抜かれたら、時間稼ぎぐらいはできるだろう?」
 懐に手を入れていたヤンの動きが止まった。
「ずいぶんじゃないの、ジン。私たちが何をしたというの?」
 イヴが額に銃口を当てられたまま、紫の瞳でジンを見上げた。
「ケイトの暗示を解けよ、イヴ」
「暗示? いったい何の話?」
「しらばっくれるな。この状況でケイトがおとなしすぎる。こいつはもっと落ち着きがない」
「ふふ、それだけ? たったそれだけのことで私に銃口を向けるの?」
「……さっきモリソンが死んだ」
「モリソン?」
「Mと言ったほうがいいか? あんたのお気に入りのジュエリーデザイナーだ」
 イヴは黙ってジンの話の続きを待った。
「あんたは奴を抱え込み、寄生虫の入ったこの石をアクセサリーに仕立て、邪魔な人間を殺した。この中には乾眠状態のミミックワームの成虫が入っている」
 ジンはポケットから、紫の石を取り出して見せた。
「ここで最初に死んだ三人のことを言っているの? バカね、彼らはこの店の常連よ」
「だが、セントラルは兼ねてからダウンタウンの再開発に着手しようとしていた。まずはこのフラワー通りの撤廃から始めようとしていて、コイルとトムズはその先鋒に立っていた。あんたにとっちゃ、目の上のたんこぶだ」
「だから殺した? ふふ、バカみたいだわ」
 イヴがやっていられないと言うように手を振った。
「ジンともあろう人がなんともお粗末な推理ね。あなたはなーんにもわかってない」
 その時、ケイトの膝で眠っていたフレーネがふいに起き上がり、イヴの額に向いていた銃口を両手で掴んで自分の胸に向けた。
「──っ⁉」
 ジンがひるんだその瞬間を逃さず、ヤンのリボルバーがジンの後頭部に当てられた。
「銃から手を放しなさい、ジン」
「……」
 フレーネの虚ろな目は何も映しておらず、両手はジンのコルトの銃口をがっちり掴んでとうとうジンからむしり取ってしまった。すごい力だ。おそらく二人のメイドたちのように操られているのだろう。
 仕方なくジンは両手を上げた。フレーネはジンの銃を手に、自分の道具屋のキャリーバッグの所へ行くと、プラスチックケースを取り出してそれを懐に抱えた。
 ──あれは、モリソンの家で回収したアンバーグリスのアクセサリーだ。なぜここに? そういえば俺はあれをどうした? 
 フレーネと石の話をした後、それをどうしたかの記憶がすっぽり抜けている。
「フレーネをさらった目的はそれか? そうか、本当の狙いは魔石協会のスミスか……」
 ジンがイヴに言った。
「また外れよ、ジン」
 イヴが意味深に笑い、ヤンに向かって言った。
「ヤン、ここももう潮時ね。行きましょうか?」
「……はい、ですがいいんですか? このままで?」
「いいのよ」
 イヴがフレーネの手を引いてウォークイン・クローゼットの方に向かった。
 小鳥たちはせわしなく、複雑な囀りを重ねている。
 ケイトはジンにもなにかの魔法が掛けられるんじゃないかと気が気ではないが、ジンに注意を促すことができない。
「……おい?」
「じゃあね、ケイト。またどこかで会えるといいわね」
 ケイトはジンのそばに突っ立ったまま動けない。その表情だけがこのジレンマの苛立ちを浮かべる。
「……」
「ジン、最後にいいこと教えてあげるわ。その寄生虫の本当の名前はね、ミミックワームではなく、ドラゴンワームというの。少なくとも、私たちの間ではそう呼ばれていたわ」
「ドラゴンワーム?」
「古い古い生き物よ」
 そう言って、イヴがフレーネの手を引いてクローゼットの中に消えた。
 小鳥たちが囀りながら一斉に続く。
 最後にヤンが、ジンの額を正確に狙いながらゆっくりとそれを追う。
 ヤンの姿がクローゼットの中に消えた瞬間、ケイトの魔法が解けた。
 ジンがクローゼットに向けて走り、ケイトがジンに一拍遅れでクローゼットに飛び込んだ。
 吊るされたたくさんの服が二人の行く手と視界を阻む。それを次々に手で払いながら、二人が奥に行くと、人ひとりがやっと通れそうなチューブの中にヤンの右足の踵が消えるのが見えた。その入り口付近にジンの銃が落ちている。それを素早く拾って飛び込もうとして、穴が唐突にシュンと閉じた。勢いあまって二人は順番に壁にぶち当たった。
「うわっ」
「フレーネ!」
 壁を壊すように、ケイトが必死でこぶしを叩きつけた。だがそこはすでにただの壁だ。
「フレーネ‼」
「よせ、ケイト、すでに空間が封印されてる。ここにチューブがあったんだ」
「ジン! 早く追わないと!」
 矢も楯もたまらずケイトがクローゼットを飛び出し、闇雲にイヴの部屋を飛び出そうとしてジンに捕まえられた。
「待て、ケイト! どこへ行こうってんだよ!」
「どこへ? どこへ行けばいい、ジン⁉ どこを探せばいいか、ジンならわかるだろ⁉」
「ケイト!」
 ジンがケイトを懐に抱えた。
「落ち着け」
「離せ!」
 ケイトが振り払おうともがくが、ジンは抱きしめる腕に力を入れた。
「落ち着け、大丈夫だから。あの様子から言ってイヴはすぐにはフレーネを傷つけないだろう。必ず助けるから、ケイト、まずは俺に話を聞かせてくれ……」
「……」
 ケイトがようやくおとなしくなると言った。
「あの小鳥たちはおそらく、イヴの一部だ……」
「あれが魔法を歌ってたのか……」
 ジンが納得したように言った。
 イヴの部屋に戻り、片隅で気を失っているメイドがただ眠っているだけなのを確かめて、ケイトが刀を取り戻しながら言った。
「……私がここへ来た時にはすでにフレーネは長椅子で眠らされていた。イヴが持って行ったあのケースの中には何が入ってたんだ?」
「アンバーグリスだ」
「アンバーグリス?」
「その前に、おまえは昨夜何を見たんだ?」
 ケイトが昨夜見た、小鳥に群がられていたヤンの様子を話した。
「鳥に……?」
「そう。その後ヤンが生きていたこともあって油断した。まずはあの鳥を捕まえて、調べてからイヴをじっくり観察すればいいと思ってたんだ。まさか、フレーネが捕まっていたなんて……」
「おまえのせいじゃない」
「……でも多分、イヴはもうここに戻ってこないんだ……」
「正体がバレたもんな」
「それもあるが、イヴは旧世界でリリスやサキュパスと呼ばれていた魔物だ。ヒトの精を吸って生きながらえてると言った。だとすれば、不老不死の彼女が、この先何十年も一ヵ所に留まり続けるのは無理だ。いつまでも老いない女なんて、いずれ正体が怪しまれる。ここも潮時だと言ってたろう?」  ──あなたはなーんにもわかってないのね。
 イヴはさっきそう言った。
「そうか。だから、俺の推理を的外れだと言ったのか。点数稼ぎの議員に、この地を立ち退かされるとしても、不老不死ならどこかに場所を変えてのんびりやればいいんだ」
「たぶん。そして彼女は相当な資産家だ」
 そう言って、ケイトは今日もつけている昨夜のゴージャスなネックレスを外し、ジンの手の上に載せた。
「昨日はイミテーションの安物だと言ってたが、たぶん本物のエメラルドだ。数千万ゴールドはすると宝石屋のオヤジが言ってた。だから彼女は、金のためにも動かない」
「……サキュパスか。あの小鳥たちもあれだけの数がいたのに、撃った個体の死体どころか、部屋に羽の一枚も落ちていない……」
 ジンが己の推理力の浅はかさを噛みしめるように呟いた。
「ジン、イヴがフレーネの精気を吸って殺してしまう前に早く……」
「いや、イヴの狙いはそれじゃない。わざわざリスクを冒してまでフレーネを連れていく意味がない。今までだってこの店で男たちから精気を吸い上げていたんだろうからな」
「じゃあなんでイヴは……」
「おそらくアンバーグリスだと思う。人の心を操ることもできる媚薬の原料で、香料にもなる恐ろしく希少で高価な魔石だ。それなら彼女の気を惹きそうじゃないか? イヴの本当の狙いは魔石協会顧問のスミスが持ってるアンバーグリスだったんだ。普段からモリソンやスミスとつながっていたフレーネは、それに気づいたのかもしれない」
「だからフレーネの口を封じようとした? だったらなおさら早く……」
「いや、それならとっくに殺してるはずだ。フレーネはここへもしょっちゅう出入りしてたんだからな」
「あ、もしかして、アンバーグリスを扱うのに魔術士のフレーネの声が必要だとか……?」
「俺もそうじゃないかと思っている。彼女は器用だからな」
 魔石は、反応する音の周波数に相性がある。魔術士の声がすべての魔石を反応させるわけではないのだ。
「じゃあ、すぐには殺されない……?」
「たぶんな」
「ジン……」
「ん?」
「精気ってなんだ? イヴは人の精気を吸って生きていると言った。私も過去に、人の精気を吸って生きながらえた」
 ケイトがドレスの上から、自分のタトゥに触れながら言った。
「そうだな……」
 ジンが考えをまとめながら、手の中のネックレスをイヴのジュエリーボックスに戻した。
「あくまでこれは俺の仮説だが、ざっくり言えば、生き物の多くはサイトカインという、細胞が分泌する超極小のタンパク質を、体内のあらゆるところで受け渡しながら活動している。これは、手足を動かすとか、心臓を動かすといった大きな運動よりもはるかに小さい、例えば免疫細胞を動かす分子レベルでの話だ。わかるか?」
「うん。身体に細菌やウィルスなんかの異物が入ったら、免疫細胞が活躍するとか、そういうことだろ?」
「そうだ。他にも色々あって、脳神経ホルモンの受け渡しなんかもそうだな。つまり、身体の生命活動のありとあらゆる全てだ。これらはひとつの動きだけをみれば微細だが、まぁ、集まれば結構な運動量になる。そこにエネルギーが生まれたり消費されたりする。つまり生命活動だ。俺の考えでは、それを『精気』と言っていいんじゃないかと思う。ほら、実際には見えないのに気配がするってあるだろう?」
「私は、そのエネルギーをもらって生きながらえた……?」
「実際のところはわからんがな」
「……ジンはそういうことを、一体どこで学んだんだ?」
 ケイトはジンの過去をほとんど知らないことに気づいた。
「中学の保健体育で習わなかったか?」
 そういって混ぜっ返すジンに、ケイトが苦笑しながら言った。
「ごめん、詮索するつもりじゃないんだ」
「あぁ、すまん、そうじゃなくて、つまらない話かと思っただけだ」
 ジンは、ヤンが用意していた茶器に二人分のお茶を入れながら言った。もちろん、アンバーグリスが使われていないことを確認した。
「……俺は生まれてすぐに、両親をビッグクラッシュで失い施設で育った。そして、十歳で医学博士の養父に引き取られたんだ。そこで分子生物学の英才教育を受けた。医師の資格もその頃取得した」
「そうだったのか」
「養父には、自分の跡を継いでくれる助手が欲しかったと言われた」
「子ども相手に家族じゃなくて助手……?」
「でも、俺にはその方がしっくり来たんだ。そもそも家族を知らないし、そんな奴は周囲にゴロゴロいたから、そのことを別段不幸に思ったことはないし、助手だというなら、その方がわかりやすかった。大切に育ててもらったしな」
「……そうか」
 ジンの話によると、その後、養父が若年性アルツハイマーを発症し、研究者を続けられなくなってから、それまでの生活が一変したという。お嬢様育ちで養父がいなければ何もできない養母も加えた家族の生活と介護が、ジンの肩にいっぺんにのしかかった。
「でもそれがなんでまた亜種討伐の傭兵なんかに? 医者の方がよくないか?」
「医者になるには試験だけではなく、どうしても数年間の実務経験が必要だ。当時の俺はまだ十七で、その年である程度稼げるのは傭兵だけだったんだ」
「十七? いったい、いくつで医師の国家試験に受かったんだ?」
「十五だ。実務は最低でも十八歳からだったんだ」
「それはすごい」
「早期教育を受けていただけだ。けど、その頃の俺は、たまたま友達に借りた旧世界の戦記にはまってたんだ。もう夢中になったよ。アレキサンドロス、ハンニバル、スキピオに諸葛孔明、孫子その他諸々。不利な戦いを胸のすく戦術でひっくり返す彼らが、最高にイかすと思ってた。その影響で身体も鍛えてたし、これだって思っちゃったんだよな。なんたってガキだからな。おまえならわかるだろ?」
「う、うーん、私はその年ごろは、異種格闘技の試合のチケット取るのに夢中だった」
 二人で互いに指を突きつけあって「バカだ」「おまえだろ」といいながら短く笑った。
「俺が二十歳を過ぎるころには養父母も相次いで亡くなって、そんなこんなで今がある。というわけで、ケイト、一旦場所を替えよう。おまえはそんな格好だし、ここは刺激的な場所だし、なんか落ち着かねえ」
 ジンがそう言って立ち上がった。
 ケイトはそれを聞いてぎょっとすると、まだドレス姿だったことを思い出して、慌てて元の服に着替えるためクローゼットに飛び込んだ。
 イヴたちの消えた壁は、何事もなかったように沈黙している。

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