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創作大賞「ドラゴン・シード」#10

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

十話

 ──デカい……。
 ケイトは目の前にヌッと現れた巨大な蟻の化け物を見上げながら思った。
 ゴッシュとともに、作戦本部がある雑居ビル前の公園で、列を離れて紛れ込んできたバケモノ蟻三匹と対峙していた。
 蟻の体長は約三メートル。頭部の半分ほどもある頑丈そうな牙をガチガチと打ち鳴らしながら、感情のない昆虫の顔がこちらに迫ってくる。
 巨大軍隊蟻モンスターアーミーアント
 軍隊アリに極めて近い性質を持つその亜種は、半月前、第八セクターの辺縁部に突然開いたチューブから現れた。最初の数匹が現れたかと思うと、すぐに群れとなって町を埋め尽くし、蹂躙してゆく。旧世界の都市部だった第八セクターが、ビッグクラッシュの際に打ち捨てられ半ば廃墟と化していたのは不幸中の幸いだったかもしれない。
 頭部のほとんどを占めるデカい顎に硬い外骨格が9ミリの銃弾を弾くことはすでにわかっている。そしてあの巨大な牙と鋭い爪は、コンクリートも簡単に砕き、目についた生き物という生き物は軒並み肉団子に変えて持ち運んだ。
 ケイトは蟻の死角になる懐に思い切って潜り込み、剣を握り締めながら意識を集中した。
 うなじの毛が逆立つような感覚と共に、白い光がヤツの身体の中で瞬き、弱点はここだと教えてくれる。
「ゴッシュ! 喉元から頭部の付け根に向かって刃が通るぞ!」
 ケイトが言い終わる前に鞘から剣を抜き、今言った場所を思い切り下から突き上げた。
「よっしゃ!」
 全身これ筋肉といったゴッシュがすかさず反応した。
 銃弾すら弾くとは思えないほど、簡単に喉元から頭部に突き抜けた刀を抜き、ケイトは致命傷を負った蟻に押しつぶされる前に懐から抜け出した。
 そのまま鋼鉄のような脚を蹴って背中に駆け上がると、後ろに控えていた次の蟻を頭上から狙う。
 動きを止めた蟻の固い背中を蹴って跳んだ。
 その衝撃で、ドオッと音を立てて最初の蟻が横ざまに倒れた。
 次の蟻の触覚がケイトに気づく前に、今度は真上から喉に向かって突き刺した。
 蟻の頭上からゴッシュの方を見ると、自慢の筋力に任せて振り抜かれたハルバートが、巨大蟻の首を跳ね飛ばすのが見えた。
「ケイト! 行くぞ、ジンが待ってる!」
「了解!」
 二人揃って目の前の雑居ビルにいるジンの元に向かった。
 普段なら、何かと腰の重いセントラルも、その数の威力に圧倒され、大慌てで各地のギルドに討伐依頼の招集をかけた。第八セクターには、セントラルのある第二セクターに繋がるチューブが開いていたのだ。
 作戦本部が置かれている北東部にある雑居ビルの最上階には、各地でかき集められた生え抜きの傭兵チームや魔術士が集結しているはずだ。
 ケイトとゴッシュが本部のある臨時会議室に入ってゆくと、各チームのリーダーや魔術士達が集まっていた。すでに現場に散っている連中もいる。
 壁には大型のモニターがかけられ、街頭カメラやドローンで撮影された街を蹂躙するバケモノ蟻の群れが様々な角度から映し出されている。
 ジンはモバイルを数台開き、各地のリーダとリモートでひっきりなしに連絡を取りながら、せわしなくキーボードを叩いていた。ケイトたちに気づくと、「ちょっと待て」と言ってモニターから目を離さない。
「……よし、とりあえずこれで最後だ」
 エンターキーを叩いてモニターの前から腰を上げた。
「遅えぞ」
「すまん、ケイトにあいつらの弱点探ってもらってた」
「わかったのか?」
「まぁ一応。喉元から首の付け根にかけての外骨格の隙間なら剣も通る」
 ケイトが報告すると、ジンが「そうか」と満足そうな笑顔を見せた。
 ケイトはその笑顔に励まされながら、「でも、この数を一匹一匹相手にするのは無理があるよな……」と、照れ隠しに口の中でモゴモゴ言った。
「いや、よくやってくれた」
 ジンが部屋にいたメンバーとモニターに映るリーダーたちに声をかけた。「よし、とりあえず、作戦を説明する。各配置にいるメンバーには、すでに同じ情報をモバイルに一斉送信してあるので確認してくれ」
 このモンスターアーミーアント討伐を、セントラルに真っ先に依頼されたジンは、伝手を使って一斉に懇意のチームに声をかけた。その流れでこの殲滅作戦の陣頭指揮に当たっている。
 文句は誰からも出なかった。ガラクタ集めや料理が趣味のこの男は、この頃にはすでに荒くれの傭兵どもに絶大な信頼を得ていた。
 何度か一緒に仕事をしてみて、今ならその理由がわかる。ジンは兵の被害を抑えるための努力を決して惜しまない。そして彼は、命を惜しむなというタイプの上官を心から軽蔑していた。
「一言で言えば、蟻どもを昔の地下鉄坑道跡に導いて火で一気に焼き払う。そして、辺縁部のチューブは魔術士チームで一斉に封印だ」
「おいおい、言うのは簡単だがどうやって?」
 ゴッシュが皆の気持ちを代弁した。
「蟻どもの誘導にはこれだ」
 ジンがボトルスプレーに入った何かの液体を、シュッとひと吹きしながら言った。
「うっ、なにこれ、臭い!」
 魔術師チームを率いるジャネットが、鼻をつまみながら言った。
 酸っぱいような苦いような辛いような、独特の刺激臭が辺りに充満した。 「いわゆる、奴らの『道しるべフェロモン』だ。昆虫の蟻は、仲間を目的地に誘導するために、独特のフェロモンを通り道に擦り付けることが知られている。つまり、その匂いを辿って迷わず歩いているわけだ。そのフェロモンが、あのデカブツからも分泌されていることがわかっている。それを人工的に合成したのがこれだ」
 そしてジンは、背中に背負う大型の噴霧器をいくつか取り出した。
「なるほど、俺らがこれを手分けして散布するわけか」
 ゴッシュが噴霧器を背負いながら言った。
「そう。すでに先行しているチームもいる。ただ、このフェロモンは揮発性が高く、すぐに匂いが消える。だから、あらかじめ道筋に塗りつけておくということが出来ない。つまり、奴らの目の前で攻撃をかわしながら、噴霧してゆくしかない。ただし、一度道ができてしまえば、あとは奴ら自身がその役割を果たすだろう」
「ちょっと待て。地下鉄駅構内まで誘導したらそのあとはどうするつもりだ? 退路の確保は? そもそも、あれだけの数を一匹残らず誘導するには相当時間もかかる。あいつらがそれまで大人しく、そこに留まっているとは思えない」
 ケイトの知らない他チームのリーダーらしき男が言った。
「うん、いい質問だ、サカイ」
 ジンが壁のモニターの地図を指しながら言った。
「駅構内のど真ん中に、女王蟻のフェロモンをたっぷりまぶしたハリボテ女王が待ち構えている。そのフェロモンに奴らが残らず集まったところで、仕込みの偽女王がタイミングを見計らってドカンだ。ちなみに、女王蟻のフェロモンは安定していて揮発性が低いので問題ない」
「爆弾? 危険すぎないか? 坑道が崩れれば、街の被害はもっとでかくなるぞ」
 モニターの中から誰かが言った。
「その通りだ。そこでメインは焼夷弾だ。C4も出入り口を塞ぐために若干使用するがな。爆発より延焼だ。もちろんその前に、我々は脱出する」
「なるほど。バラバラに吹っ飛ばすより焼き殺すわけか。だが、デカすぎる火はコントロールが難しい。リスクがデカすぎないか?」
 ゴッシュが言った。
「この地下鉄跡のそばにでかい雨水槽があるんだ。これもビッグクラッシュ以前に造られたものだが、まだ生きている。そこから水を引いて、頃合いを見計らって消火に使う。そして、我々は主に、地下鉄構内に沿うように作られた、作業用坑道を使って移動する。爆発の威力は抑えてあるので、崩れる心配もない。入口と出口の場所は各自の地図アプリで確認してくれ」
 ジンに言われてモバイルのアプリを開くと、赤い印のついた辺り一帯の地図が表示された。
 ビッグクラッシュ前に使われていた古い地下鉄跡を利用する。そのために、現在もまだ地上につながっている坑道跡と、古い地図に間違いがないか、ドローンと人でギリギリまで直接確認していたらしい。
「で、クソ蟻どもを追い込んだ後で、デカイ穴はC4で塞ぐ」
「なるほど」
「だからこの作戦の鍵は、いかに上手く蟻どもを誘導できるかにかかっている。そして、一緒に蒸し焼きになる前に、素早く逃げることもだ。さらに、肝心の蟻どもが湧き出すチューブは、魔術師のみんなに魔法陣で封印にかかってもらう」
「ちょっと待って! 無茶言わないでよ! あんなバケモノ蟻がうじゃうじゃいる中で魔法陣なんか描けないわ! 何重にも重ねなければならないし、封印術はただでさえ神経を使うのよ」
「うん、だからこれだ」
 ジンがタブレットをタップしながら言った。
 そこには複雑な魔法陣がすでにいくつも描かれていた。
「あらかじめ描いたこの魔方陣を、プロジェクションマッピングを使ってチューブの穴に投影する。必要な魔石はすでにチューブの入り口に埋め込んである。そして、マイクを通して歌いながら一枚一枚重ねてゆくんだ」
 愕然としたように、ジャネットがジンの顔を見つめながら言った。
「こ、こんなの、こんな方法、聞いたことがないわ! うまくいくとも思えない!」
「前にこのやり方を思いついた友人がいて、一緒に何度か実験した時には成功した。壁のヒビから侵入する害虫や害獣相手だったが、理論的には同じだ」
 ケイトは、アパートの壁のひび割れから、ネズミやゴキブリが出るたびに大騒ぎするサシャのために、ジンがタブレットを使いながらうちで何かしていたことを思い出した。 確かに、うちではネズミやゴキブリがある時期からぴたりと出なくなった。
「でも……」
「試している時間はもうない。この間にも蟻どもは街を瓦礫に変えている。ジャネット、やらない手はない」
 魔術師チーム最年長のオズミンが言った。
「……わかったわ。でも、もし失敗したら……?」
「その場合は、チューブの入り口を爆破で塞ぐ。近くに建っている廃ビルのいくつかにC4を仕込んで倒壊させる予定だ。時間稼ぎにしかならないが、そこで働いてもらうのはケイトのチームだ。行けるな、ケイト?」
「もちろん」
「ジン、地下鉄に追い込めなかった蟻どもも出てくるだろ? 俺たちは全員合わせても百人程度だ。この人数でさすがに無理がないか?」
 ゴッシュが言った。
「こぼれたヤツラは根気よく一匹づつ叩くしかないが、下の階に武器が準備してある。対戦車ライフルが二十、重機関銃が八基。ロケットランチャーもふたつある。これらの武器なら致命傷を与えられることはすでに実験済みだ」
「わお、そりゃ豪勢なこって」
「ケイトのおかげで闇雲に銃弾を無駄にしなくてすみそうだしな」
「それにしても、この短い期間でよくセントラルの許可が下りたな」
「セントラルの安全がかかってるからな。まぁ、認可のサインを待ってる間に、奴らの通り道がここまでできてしまいますねと脅した」
「あはは、的確だ」
 そしてジンはみなに向かって「ここまでで質問は?」と言った。
 誰も手をあげるものはなかった。
 ジンがパンッと一度手を叩いた。
「始めてくれ」
 全員がパッと一斉に散った。
「ケイト」
 ジンに呼ばれてケイトが振り向いた。
「ん?」
「ちょっと話があるんだ」
「なに?」
「実はそのー、えーと、あれだ……」
 あれほどみなの前で堂々と話していたジンが、なぜか打って変わって歯切れが悪い。
「なんだよ? 腹でも壊してるのか?」
「ジンはいたって健康よ、お姉ちゃん」
 その声に驚いて振り向くと、サシャが似合わないアーミーシャツを着てニコニコと笑っている。
「サシャ⁉」
 ケイトがジンを見ると、弱ったなというように頭を掻いている。
「どう言うことだ⁉ なぜサシャがここにいる!」
 ケイトがジンに食ってかかると、サシャが必死で止めた。
「待ってお姉ちゃん! 私が頼んだの! 私もみんなの役に立ちたいって!」
 ジンを睨みつけながら、ケイトがサシャの腕を掴んで引きずった。
「帰るんだ、サシャ、ここは危険だ」
「危険だって言うならお姉ちゃんだって同じじゃない!」
「同じなわけあるか! 訓練と実戦を積んでいる私たちとおまえじゃ話にならない! 帰るよ、サシャ!」
「待って、お願い‼ なにも作戦の先頭に立って亜種と戦おうと言うんじゃないの! 私は後方支援だから!」
「後方支援?」
「そうだ、ケイト。サシャには安全な場所で、蟻の道しるべフェロモンを合成したり、補給を手伝ってもらってる。そこでは他にも民間人が何人もいる。女性もだ。それに、プロジェクションマッピングを使った魔法陣のアイディアも、元はサシャなんだ。あの魔法陣にはサシャのオリジナルの魔法が入っている」
「オリジナル? どういうことだ? なんでサシャが魔法なんか……」
「お姉ちゃん、私ももう十六だよ? お姉ちゃんは今の私より幼い十四歳からずっと戦場に出てきた」
「それは、私は丈夫だからだ」
「そういう問題じゃねえ。十四から前線に出てる女なんかおまえぐらいだ」  
 呆れたように言うジンを、ケイトは余計なことを言うなというようにギッと睨みつけた。
「とにかく、私は大丈夫だから。ここのところ発作も出てないし、出たとしてもここなら癒し系の一流魔術士もいるでしょ?」
「うーん……」
 確かにその通りなのだ。この言葉がケイトの不安を少し軽くした。
「それに、もし、もしだよ? もし、お姉ちゃんの身に何かあったら、私だってひとりで生きていかなければならないんだから……」
 それを言われるとケイトも辛い。今もこれからも、姉であり保護者でもある自分の身に何か起きないとは言い切れない。
「待ってるだけの身というのも辛いもんだ。ケイト、少しはサシャの気持ちもわかってやれ」
「……じゃあ、こう言うのはどうだろう? サシャはジンの嫁になればいいんだ。で、ジンはこの仕事が終わったら、がっつり報酬をぶんどってこの世界から足を洗う。そしたら私に何かあってもジンがいる。だから帰れ」
 呆れたようにサシャとジンが顔を見合わせた。
「前から思ってたんだけど、うちのお姉ちゃんってちょっと天然だよね?」
「ちょっとどころじゃないけどな」
「でも、あたし、ジンのお嫁さんになるのは悪くないな」
 にっこり笑ってそう言うサシャに、ジンは冗談だとでも思ったのか「そりゃどーも」とアッサリ流した。ケイトは内心舌打ちした。ジンにはサシャの本気がなぜ伝わらないのだ。
 それはともかく、ジンの話では、サシャが後方支援で待機している場所は、町の外れに位置する最も現場から離れた場所なのだという。物資の輸送は、特別な現場だけで使用が許されている頑丈で安全な電気トラックだ。サシャが動かすわけでもない。
 そんなこともあって、ケイトはいつ何が起きてもおかしくない、亜種討伐の戦場を甘くみた。
 
 ジンの作戦はおおむねうまくいった。
 プロジェクションマッピングを使った魔法陣が次々にうまく発動したため、こちらに紛れ込んだ数百匹の個体を殲滅するだけで済んだのだ。ジンとサシャのこのアイディアは、この作戦以降もチューブの封鎖に役立っている。
 弾薬の扱いに慣れていない、一部の兵士たちが蟻どもとのタイマン勝負に手こずったが、急所の情報を共有していたおかげで、それもなんとかうまく収めた。やはり銃のような飛び道具は便利だ。
 夜になり、古い地下坑道で、蟻のバケモノはまさに燃え殻になろうとしていた。群れからはぐれ、辛くも生き残った奴らも次々に殲滅されてゆく。
 街は地下で燃え盛る炎の熱に炙られ、真冬なのに春先のような暖かさだった。
 でかいチューブの穴いっぱいに、幾重にも投影された輝く魔法陣が、街の外れからもよく見えた。空間に開いた摩訶不思議な次元の穴は徐々に小さくなってゆく。もともと不安定なチューブだったらしい。
 蟻どもが残らず死んだかどうか、一晩様子を見ることになっていた。犠牲者はほとんど出なかった。誰もがこの奇跡的な作戦の成功に酔っていた。
 そのときケイトは、本部に戻ろうとして、雑居ビルの前にある公園を横切った。そこへ、ちょうど後方支援の人々とともに、サシャが補給物資を持ってきていた。
「サシャ!」
 圧倒的勝利に高揚していたケイトは、つい浮かれてサシャに手を振った。 「お姉ちゃん!」
 サシャもケイトに気づき、手を振りながら笑顔でこちらにやって来た。
 そのとき、ケイトの足元の地面が、出し抜けにボコッという音を立てて崩れた。
「え?」
 サシャが、後ろに向かって倒れるケイトの腕をとっさに掴んだ。
「お姉ちゃん‼」
 ケイトはグイと引かれて態勢を立て直したが、サシャはケイトの体重を支えきれず、ケイトと入れ替わるように穴に向かって身体が傾いてゆく。
 全てがスローモーションに見えた。
 奈落に落ちてゆこうとするサシャの腕を、ケイトはとっさにくるりと身を翻し、間一髪で掴んだ。
「サシャッ‼」
 サシャの重みと自分の動きにつられ、思い切り地面に腹を打ち付けられて一瞬息がつまる。そのままズルズルと滑ってゆく。肺から空気が叩き出され、食いしばった歯の間から息が漏れた。
「グッ…ウゥ……」
「お姉ちゃん‼」
 ギリギリ穴の縁で体を支え、なんとか落下を免れた。
 崩落した地面の下には、デカイ穴がすり鉢状に開き、その底の穴から、崩落した瓦礫や土を掻き分け、何かが這い上がって来ようとしていた。まるで、蟻地獄の中でもがく蟻だ。
 どうやら公園の真下には、古い地下坑道が走っていたのだ。そして、ジンがかき集めた情報の中に、この坑道は入っていなかった。
 ギチギチギチギチッ――─
 奈落の底では、嫌な擦過音を立てて、とっくに灰になっているはずの蟻の女王が鳴き声を上げている。他の蟻たちより数倍の大きさだ。
 彼女の身体はあちこちに火がつき、全身が赤く爛れ、瀕死の身体を引きずりながら激怒している。前脚を振り上げ、ちぎれた触覚を蠢かせながら、復讐に燃え上がっていた。
「きゃあああぁ――っ」
 サシャが恐怖で悲鳴をあげている。
 ケイトはなんとかサシャを引き上げようとするが、身体は穴の縁に向かってますますズルズルと滑ってゆく。
「お姉ちゃん‼」
 ――わかってる!
 何が何でもこの手を離したりしない。
 サシャの手を離さないというその一点において、ケイトは全身全霊を賭けた。
 気づくと腹に何か熱いものが押し付けられるのを感じた。
 地面とケイトの身体の間に挟まっていたなにかの金属片だった。折れて尖った金属片が、ケイトの腹を切り裂いてゆく。激痛が全身を貫いた。
「うあぁああ……」
「お姉ちゃん‼」
 サシャがケイトの手を掴んで叫んでいる。その顔にケイトの血が滴って赤く汚していく。
 ああ、ごめん、血なんて怖いよね。ごめん――
 激痛で意識が朦朧としてくる。腕を伝う血のせいで、手が滑る。
 サシャが……サシャが……ああ、やっぱりサシャを、あの時無理矢理にでも帰せばよかった……
「お姉ちゃんっ、助けて……‼」
 ああ、サシャ、今助ける。必ず助けるから待ってて――
「ケイト⁉」
 あの声はジンだ! ジン、早く、早くして……サシャが……
 穴に向かって瞬間強く身体が引っ張られる感覚と、ジンの腕がケイトの身体を掴んだのは同時だったような気がする。
 ホッとしたと同時にケイトの目の前が真っ暗になった――

前話
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