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痛みや失敗の豊富さが優しさに繋がることはないが、凡人なりの工夫はできる



痛みは優しさになり得るのか

「君はたくさんの痛みを知っているから、人に優しくできる」という言葉をかけられたことがある。精神的な辛さを知ったからこそ、辛い状況にある他人の痛みを敏感に察知し手を差し伸べることができる。たぶんそういうことだと思う。
でも、「人の痛みに気づける」ことが即「優しくできる」に繋がる訳ではない。僕らは凡人だ。テレパシーも使えないし自己認識の1000倍は共感力がない。想像力がない。それに、「人の痛みに気づける」ことは初めの第一歩に過ぎないということすら簡単に見落としてしまう。残念ながら、人の能力というのは「こうあってほしい」と願う自己像の劣化コピーにすら届かない。
だから、気づくことからもう一歩踏み込んでみよう。世の中の大半は凡人で、ほとんどの方法論も知識も凡人が使用可能なレベルにチューニングされているから。凡人の最大の強みは「凡人が凡人に向けて残した全ての道具を使いこなすための素質」を持っているところにある。
これは僕という凡人が、僕と同じくらいの凡人に向けて書いた日記だ。好きに読んで出汁にしてほしい。そして、全部読み終えたらさっさと破り捨てて街に出てほしい。ごく個人的な教えなんてものは支柱にしちゃいけない。

共感力と想像力が乏しい僕ら凡人は、「相手の痛みと自分の想像とのズレ」に気付けない

人には「相手の傷を修復することで間接的に自分の傷を塞ごうとする欲求」が存在する。これは誰しも持っている原始的な欲求だ。人は人生の中で数えきれないほどの傷を抱え、充分に癒せないまま大きな力に押し流されて生きている。その力は時間であり社会であり、ごく個人的な感情だ。とにかく人はカサブタが間に合わない傷に無理やり絆創膏を当てて歩いている。普段はなんとかやれている。でもやっぱり痛いものは痛いし、治せるものなら治したいと思う。けど真正面から自分の傷を癒すのは時間がかかる上に難しいし、一人芝居のようで白けてしまう。人間はこと自分の問題になると途端に不器用になるものだ。
けど人は他人の傷を癒すことを通じて間接的に自分の傷を癒すことなら得意だし、このことを感覚的によく理解している。では、「人も自分も助けられてハッピーエンド」なのだろうか?もちろん否だ。残念ながら僕たちは人の傷を過不足なく適切に癒せるだけの能力を持っていない。その試みは往々にしてお節介の域を出ない。なぜだろう?それはきっと相手の傷を理解できると思ってしまうからだ。
相手の傷は過去に自分が負った傷と同じだ、だからあの時の自分がして欲しかった支援を相手に適用してばいい。そう無意識に判断する。本当は相手の傷のことを理解できていないまま、独りよがりな支援を押し付けることになる。でもそのこと自体は至って自然だし仕方のないことだ。だって僕らは凡人だ。初めて自転車に乗ったら誰だって転んで体中に擦り傷を作る。
でも、そのままではいけない。自転車を乗りこなすためには思考と練習が必要なように、人の傷に触れるなら「自分の想像と相手の痛みとの間のズレ」を学ぶことが必要だ。

「相手の痛みと想像とのズレ」に気づくには、「痛みを理解されないという痛み」を何度も噛み締めなければならない

「私はこんなに苦しんでいるのに、どうしてこの苦しさを理解してくれないのだろう?なんでそんなに的外れなお節介を押し付けてくるのだろう?」
こういう気持ちを誰しも一度は経験していると思う。本当に辛くて助けてほしいのに、肝心の苦しさを誤解されることへの無力感。やるせなさ。
思い出せただろうか?その感覚が消えないよう、今この瞬間に噛んで噛んで噛みまくってほしい。2度と手放せないように体に覚え込ませてほしい。
……どうだろう?そんなの無理に決まってる。そう、無理だ。経験量が豊富ならともかく。たぶんほとんど忘れちゃってるし。なぜなら僕らは紛れもなく凡人だから。でも、凡人にもできることはある。

価値観を相対化させることは、他者と自分とのズレを理解するための強力な手段だ

「価値観の相対化」ってなんだろう。「相対」の対義語は「絶対」だ。絶対とは、それだけが正しいということ。相対とは、色んなものと比較しながらそれの立ち位置を把握すること。絶対ではないということ。その事実を受け止め常に思考に反映させることが、「相手の立場に立つ」ということだ。「自分の想像はたぶん間違っているし、たぶん殆どお節介だろう」と考えられるようになる。それが相対化であり、相手と自分の間のズレを理解すること。僕らの価値観も多分、最初は絶対化されたところからスタートする。それは家族の躾の結果かもしれないし個人的な経験の中で得た教訓かもしれない。でもどんなものにせよ、それはかなり絶対化された性格をしている。端的に言えば「独善的」だ。でもきっと殆どの人は頭ではきちんと理解している。「価値観や思想を押し付けちゃ駄目だ」「相手の立場に立たなきゃ」と。
でもそのやり方を知らない。もし「包丁は危ないから、手を切らないように気をつけてね」と言われて「なるほど。手を切らないようにしなきゃいけないんだな。なら包丁はこう持って、食材を抑える方の手は猫の手みたいにしよう」となる人がいたらその人はきっと天才だ。僕らが躓く色んなことを軽々超えて、僕らの想像も及ばない偉業を成し遂げるだろう。

凡人としての方法論

でも、繰り返すけれど僕らは凡人だ。残念ながら、ちょっとした忠告だけで包丁の安全な扱い方を理解することはできない。同じように、「相手の立場に立って考えなさい」という言葉を理解はできても、どうやればいいの見当も付かない。
話を元に戻そう。そんなわけで僕ら凡人には概念を守るための方法論が必要だ。ここで守るべき概念は「価値観の相対化」だ。「絶対に正しい価値観なんてないし、自分の価値観は無数に存在する価値観の中のとるにたらない一つに過ぎない」ということ。
そして、概念を守るための方法論は「哲学と宗教の変遷に触れて、たくさんモヤモヤすること」、「"もうここまででいいや"と感じる所から1cmだけ踏み込んで考えること」。この2つ。でも正直な所、別に教材は哲学とか宗教じゃなくてもいい。何かちょっと関心のあることでもいい。例えば動物が好きな人は環境問題とそれに対する世界全体の取り組みの歴史と、今の僕らがすべきことについて学ぶのでいい。料理が好きな人は各国の伝統的な料理や食材、味付けについて調べて、気候条件や水質なんかと絡めてみよう。そして国と国、地域と地域を比較してみる。そうやっていくと多分どこかで「モヤモヤする」ことに遭遇する。ぜひたくさんモヤモヤしてほしい。たくさん考えてほしい。
これを繰り返していくと、どっかのタイミングで「価値観の多様さ」に圧倒される時がくる。打ちのめされる時が来る。そこで初めて「自分の価値観の現在位置」が分かるし、他の領域についても同じことをしたくなる。誰しも現在位置が分からないまま、地図もないまま真っ暗な場所を歩くのは怖いから。
不恰好なプロメテウスになろう。人に火種を渡せない僕らだけど、自分自身にくらいは火種をプレゼントできるはずだ。その火種は自分限定だけど完全に消えることはない。だから怖がらず変に肩肘張らず、僕らは喜んで自分自身をあの岩山に置きに行こう。


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