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 どうして、わたしが呼ばれたんだろう。
 
 母から、
「高校の時の友達から電話があったわよ」
 と、連絡をもらったのは、一か月前のことだった。
 卒業してから、九年がたった。高校の時からずっと仲良くしている友達はいなかった。だから、古賀君から電話をもらったときも、
「なんで、わたし?」
 と、聞かずにはいられなかった。
 たしかに、古賀君とは一年の時に同じクラスだったけど。
「早坂がさ、香港に駐在するんだって」
 早坂。
 その名前に胸がざわついた。でも、やっぱり気が進まなかった。
「それはおめでたいけど、わたし、早坂君とは一度も同じクラスになったことないよ」
「同窓会じゃないんだ。送別会」
「でも、あんまり仲良くなかったし」
「久しぶりだろ? 来いよ」
「どうしようかな」
 結局、都合のいい日を聞かれた。いくつか提示されて、どの日がいいか聞かれたら全部都合が悪いと答えればいいけれど、こちらから指定した日であれば、断ることもできない。
 仲いい人、いないんだけどな。
 でも本当の行きたくない理由。それは、早坂君だった。
「一番来れる人が多い日にするつもりだから」
 わたしとみんなの都合のいい日が同じでなければいいな、と思ったのに、結局、一日だけ指定したその日に送別会が行われることになった。
 
 早坂君。彼とは、三年間ずっと違うクラスだった。一番目立つグループの中にいたけれど、早坂君自身は目立つ感じの人ではなかった。
 わたしは、昔からぼんやり生きている方だった。何かが好きとか嫌いとか、将来は何になりたいとか、そういうのも特になかった。部活や恋愛を楽しむ同級生をそばで見ながら、自分とは縁のない世界だと思っていた。
 みんなが部活に行ってしまう時間に、がらがらにすいたバスに乗り、ターミナル駅につく。やはりまだすいている上りの電車で四駅目にある駅で下り、寄り道もせずに家に帰った。

 早坂君に声をかけられたのは、高一の夏休み直後だった。ターミナル駅から、家に向かう電車の中だった。
「あれ? もしかして、となりのクラスの子?」
 そう言って笑った。
 その笑顔を見て、一瞬、動きが止まってしまった。
「あ……うん」
 同じクラスになったことはないけれど、わたしは早坂君の顔だけは知っていた。でも早坂君は、わたしのことを知っていたわけではなくて、同じ高校の制服だから声をかけてきた、という感じだった。うちの高校は最寄駅から片道約一時間かかる。そんなに時間をかけてまで行くほど大した学校でもなかったから、うちの中学から通っている人はほとんどいなかった。使っている駅も同じだったから、多分、珍しかったのだろう。
「もしかして、四中?」
「そうだけど」
「俺も。知らなかったな。俺、大体、同じ学校のやつは知ってるんだけど」
「わたし、中三の冬にこっちに来たから。四中にも、三か月しか通ってなくて」
「へえ、そうだったんだ」
 その日から、わたしたちは何となく一緒に帰るようになった。
 早坂君も帰宅部みたいだった。けれども、一緒に駅ビルを見て帰る、とか、デートをする、とか、そういうわけではなかった。
 毎日一緒に帰っていても、特に話がはずむわけでもなかった。ただ隣に立って、窓の向こうを流れる景色をふたりで見ているだけだった。……あの日までは。
「俺、好きな人がいるんだ」
 早坂君がそんなことを言ったのは、一緒に帰り始めて数か月がたったころだった。「誰?」とも聞いていないのに、早坂君は続けた。
「お前のクラスの桜木さん」
 一番おとなしいグループの女の子だ。色が白くて、華奢で、優しそうな子だった。
「……そう」
「かわいいよな、あの人」
「かわいいとか、そういう目で見たことはなかったけど」
 得てして、女子の言う「かわいい子」と、男子の言う「かわいい子」は、対極にある。
 意外だな、と思った。
 ああいう子が好きなんだ。

 それ以来、早坂君は、わたしと顔を合わせるたび桜木さんの話をした。わたしはいつも、相槌を打ちながら話を聞いた。そういうことは自分には関係のないことだったから、まるで少女漫画を読んでるみたいな感覚だった。それでも毎日話を聞いていくうちに、「きらきらしてていいなあ」と、思いはじめたりした。
 桜木さんのことを話す早坂君は、とてもうれしそうだった。わたしに桜木さんのことを話せば話すほど、もっともっと好きになるみたいだった。

 それから、一年近くが過ぎた。
「俺、告白しちゃおうかな」
 十二月に入ったばかりのころだろうか。その日は、とても寒い日だった。いつものように、後ろから三輌目の扉の前に立ってぼんやり外の景色を見ていた。
 夕方の上り電車。人影はまばらだった。
 その頃には、早坂君も、少しずつ桜木さんと話すことが増えていた。
「クリスマス、誘うの?」
「どうしようかな」
「……いいな」
 そんな言葉が自分の口からもれたことに自分でも驚いた。早坂君も意外だ、という風にわたしを見た。
「おまえも、好きなやついんの?」
「ううん、そういうわけじゃないけど。……なんか、ちょっとうらやましいっていうか」
「うらやましいって、何が?」
 いつになく食い気味に聞いてきた。わたしの方は別に、何かを伝えたいとか、強い思いがあるとか、そういうわけではなかったから、答えに迷った。
「そういう……好きな人がいる、とか。その人を思ってドキドキする、とか」
 すると早坂君は急にだまり込んだ。早坂君がだまってしまうと、わたしももう、話すことがなくなってしまった。普段は気にならないのに、その日だけはそれで済ませてはいけないような気がした。
「それで……どうするの?」
「え?」
 早坂君は何か別のことを考えていたみたいだった。慌てたように、
「どうするって、何が」
「告白するの?」
 また黙りこんでしまった。ぼんやりと流れる風景を見ながら、やっぱりなにか考えこんでいるようだった。
 いつもだったら、これ以上は聞かず、黙って流れる風景を見ていたんだと思う。けれどその日に限ってわたしは饒舌だった。
「桜木さんって、男子から結構人気あるんだもんね」
 以前、早坂君から教えてもらったことを言った。
「だから、早く言わないとほかの男子にとられちゃうよ」
 すると早坂君は責めるみたいにわたしを見た。余計なことを言った、と気づいた。
 そんなの、わたしには関係ないことなのに。
 謝ろうかと思った。でも、はっきり責められてるわけでもないのに勝手に推測して謝るのも気まずい。早坂君もなにか言葉を待っていたようだけれど、わたしがなにも言わないとわかると、また窓の外に目を向けた。
「だよな」
 思いつめたように息を吐き、下を向いた。わたしもなぜか、ひどく傷ついたような気分で窓を見た。でも、いつもみたいに早坂君と同じ風景を見るのが悔しくて、少し曇った窓ガラスに人差し指を当てた。
 ようやく早坂君が口を開いた。
「おまえ、指、ちっちゃくねえ?」
「そんなことないと思うけど」
「けど、俺の手、見ろよ」
 と、自分の左手を広げて見せた。わたしも、自分の手を広げてみた。
「女子はこんなものじゃないかな」
「比べてみようぜ」
 胸が音を立てた。別に、そんなに意識することじゃないと思う。でも、どきどき、という音が大きくなっていった。
「いやだよ」
 恥ずかしくなって、手を隠した。
「ええ? なんでだよ。いいじゃん、別に」
「そうだけど」
「ほら」
 手を広げたまままっすぐわたしの方に向けている。
 恥ずかしかった。早坂君がどうとかでなく、男子とこんなところでいちゃいちゃするみたいなことが恥ずかしかったのだ。でも、早坂君はあきらめてくれなそうだった。
 しかたなく、隠した手を出した。指を広げ、触れない程度に早坂君の手に近づける。ただそれだけで、息が止まりそうだった。
「ほんとだ、やっぱり大きいね」
 一センチほど手前で手を止め、引っ込めようとしたときだった。
「これじゃあ、わかんねえじゃん」
 手首をつかまれた。どきん、と、破裂しそうな音がした。
 でも、早坂君はそんなの少しも気にしてないみたいだった。息が苦しくて、どきどきが早くなる。振り払えばいいんだろうけど、そうするのも悪い気がした。
 多分、この人に変な気はないんだと思う。だから、わたしも変な風に思うのは、おかしい。
 自分で言い聞かせようとするのに、頭の中が真っ白になる。
「ほら、こうして」
 手のひらの一番下のところを合わせる。
 最初は親指。次に小指。人差し指、薬指、最後に中指。一本一本の指が早坂君の指に触れるたび、何か、体にぴりっとしたものが走る気がした。
 心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと思った。息ができない。ぴったりと手のひらが合わさったとき、
「すげえ」
 感動したみたいに、早坂君は声を上げた。
「子供の手みたいだ。関節一つ分小さい」
 そう言って、わたしを見た。わたしも、息が止まりそうになりながら、早坂君を見た。
 もう、限界。
 手を外そうとした時だ。
 早坂君は指をずらし、指を組むみたいにしてわたしの手をにぎった。
「……あ……」
 言葉がのどに詰まって出てこなかった。顔が真っ赤になっているのが自分でもわかる。早坂君がじっとわたしを見ていて、わたしも目がはなせなかった。
 どん、と、右手を電車の窓についた。顔の距離が縮まった。
「な、なに……」
「キス、しよっか」
 頭の中が真っ白になった。
「え……?」
 顔が近づいてきた。息ができない。
 どうしよう。
「でも、人が見てる」
「俺は構わないけど」
「そんな」
 頭の中が真っ白になる。早坂君はじっとわたしの目を見つめている。顔が近づいてきて……わたしも目を閉じた。
 吐息を感じた、その時だ。
 ―俺、好きな人がいるんだ。
 いつかの早坂君の声が耳の奥に響いた。
 ―お前のクラスの桜木さん。
 目を開いた。
「だめだよ」
 顔を背けていた。
「……なんだよ」
「桜木さんが好きなんだよね?」
 早坂君は返事をしなかった。一瞬、顔がこわばった気がした。
「わたしを練習台にするのは、やめて」
 それだけを言った。すると、早坂君は窓についていた手を下ろした。不機嫌そうに顔をそむけ、吐き出すように言った。
「おまえ、バカか」
 それが、早坂君と話した最後だった。
 その日から、同じ車両に早坂君を見ることはなくなってしまった。胸が苦しかった。そこだけ空洞になってしまったように。しばらくは早坂君がいないか、電車の中を探した。
 そうなってはじめて気づいた。
 いつの間にか、早坂君を好きになっていたんだ、と。
 おまえ、バカか。
 あれは、どういう意味だったんだろう。もしあのとき、あのままキスしていたら、何かが変わったんだろうか。
 何度も考えた。もう一回、話がしたかった。でも、その後は一度も電車でも一緒にならなかったし、地元でも顔を合わせたことはなかった。学校では見かけたけれど、わたしとは目も合わせてくれなかったし、わたしも、それがつらくて早坂君のことを考えないようにした。
 
 お店に向かう道すがら、気が重くて仕方がなかった。
 ずっと忘れていたことなのに、なんで今頃。
 何度も、急用ができたと言ってドタキャンしようかと思った。でも、できなかった。心のどこかで、もう一度会いたい、という気持ちがあったから。
 あれはもう、十年近くも前のこと。きっと、早坂君も忘れてるはず。もしかしたら結婚とかしてるかもしれないし、彼女がいるかもしれないし。きっと、急に思い出して懐かしくなった、とか、そういうことだ。
 そうやって自分の気持ちが高ぶらないようにした。
 集まったのは、ターミナル駅の中の居酒屋だった。約束の時間から十分遅れて店に入ると、
「おお、桐生! こっち!」
 古賀君の声がした。座敷の一角に十人ほどが集まっていた。
 ほとんどが、三年の時に同じクラスだった人みたいだった。派手なグループにいた男の子たちと、その子たちと仲が良かった派手めの子たちだったけれど、みんないい感じに落ち着いていた。
 その中に、桜木さんはいなかった。
 話したことはなかったけれど、みんな気さくな感じのいい人たちだった。一番末席に座り、早坂君を探した。
 早坂君は、真ん中ぐらいに座っていた。高校の時よりは、少しやせたみたいに見えた。
 わたしに気づいて、
「来てくれて、ありがとう」
 と、笑った。
「こちらこそ、呼んでくれてありがとう」
 と、返す。
「じゃあ、ここ、座れよ」
 早坂君のとなりに座っていた古賀君が、席をあけてくれた。
「いいよ、こっちで」
「けどおまえ、早坂と話すの久しぶりだろ? おれたちは、結構集まってるからさ」
 あけてくれるのに、行かない、というのも無粋な気がして、そっちの席に移動した。
 胸がときめかないように、変に期待しないように、必死に自分に言い聞かせた。
 この仲間は、みんなとても仲がいい。結構集まってる、というのも、まんざら嘘ではなさそうだった。仕事の話や、家族の話。結婚して、子供がいる人もいた。
「久しぶりだね」
 早坂君が言った。あの、電車での出来事を思い出して少しだけ胸が痛んだ。でも、そんなことはすっかり忘れているみたいだった。
「ほんとだね。……香港に駐在なの?」
「うん。三年」
「おめでとう。香港は、広東語?」
「日本語と英語でどうにか乗り切る」
 照れたように笑った。それが……初めて声をかけてくれた時の笑顔と重なる。
「会社、どこ?」
「青山」
「へえ。何関係?」
「システム関係。……早坂君は?」
「専門商社」
 不思議だった。来る前はあんなに嫌だったのに、いざ来て話してしまうと、居心地がいい。みんなでこうして定期的に集まっているせいなのか、心地いいから定期的に集まるのか。話しているのはわたしの知らないことばかりなのに、少しも不快じゃない。
「桐生のクラスも、こんな風に集まる?」
「さあ、どうだろ」
 ビールのグラスに口をつける。
「わかんないな。もしかしたら、集まってる人たちもいるのかも。わたしは、誘われたことないけど」
「だったら、これからこっちに参加すればいいよ」
「ええ? でも」
「その時は、俺もかけつける」
 早坂君は笑った。

 飲み会は、二時間くらいでお開きになった。他の人たちは二次会に行く、と言ったけれど、わたしは遠慮した。早坂君も、
「俺も今日は実家だから」
 と、みんなを見送った。
「電車、どこ?」
「早坂君と同じ」
「実家?」
「ううん……小岩」
 改札の方に歩き出しながら、あのときも、こんな風に歩いたな、と思った。
「……いつ、出発?」
「明日」
「急だね」
 すると、早坂君はうなだれ、上目がちにわたしを見た。
「だって、桐生、今日しかあいてない、っていうから」
「え……?」
「あの時、なんか、変な感じで……話もできないまま、会わなくなってさ。ずっと気になってて」
「……そう」
 ぎこちなく笑った。早鐘のように高鳴る心臓の音が聞こえてなければいいと思う。
「あの後、同じ電車にならないかな、って、探したんだけど。でもほら……桜木さんと、うまくいったのかな、と思って」
 早坂君は、返事をしなかった。
 午後九時の上り電車は、ほとんど人が乗っていなかった。いつも乗っていた、後ろから三輌目には人がいなかった。席は空いていたけれど、わたしたちはどちらともなく、あのときのように扉の前に立った。
 電車が動き出す。
 流れる車窓は暗闇にぽつぽつと明かりがともるだけだ。
「三年。……長いね」
「でも、俺は独身だから短い方。家族がいる人はもっと長いよ。五年とか」
 ことん、と、わたしの中で音がする。
「桐生は?」
「うん?」
 少しためらうように口を閉じた後、
「結婚、とか」
「ううん」
「つきあってる人、とか」
「いないよ」
 わたしたちはまた、だまって窓の外を見つめた。会話がないことに、不自然さは感じなかった。
 早坂君は口を開いた。
「ずっと、謝りたかったんだ」
「え?」
「『おまえ、バカか』」
 まさかそんな言葉が出るとは思わなくて、つい、笑ってしまった。すると驚いたように見てきた。
「怒ってないの?」
「まあ確かにあの時は、全然意味、わかんなかった。それでそのあと、急に会わなくなって、え、どうしたんだろう、とは思ったけど……」
「ごめん」
 小さく唇をかみ、
「告白もしないで、人前でキスしようとか、バカだとか……。それで、勝手に振られた気になって勝手に傷ついて」
 思い出を見つめるように、目を細めて流れる明かりを見つめる。
「ほんとは、桐生のことが好きだったんだ」
「知ってる」
 昔とは違う。だからこそ、素直に認めることができる。早坂君も照れたように笑った。
「バカだよな」
「だね」
「……ひでえな」
「どっちが」
 車窓は流れる。会話はない。
「香港、遊びに来る?」
「……いいよ」
 早坂君はそっとわたしの指をにぎった。わたしもその手をにぎり返す。
 窓の外に広がるのは、夜の町。
 それを見ながら、早坂君はつぶやいた。
「やっぱり、桐生の手は小さいな」
                                    終わり
 
 

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