第2話 ギプス
追いかける、といえば。
昔、昔の話です。まだ、子供はいませんでした。
ダンナは某国人で、別の某国のあたりの某国基地の近くに住んでいました。
ダンナの鼻の中に大きなポリープがたくさんできていました。そのせいで、顔の形まで変わっていました。医者はそれを、「白いぶどうをぎゅっ、ぎゅっと詰め込んだ感じ」と表現しました。
わたしたちは遠いところに住んでいたので、手術をするのに片道四時間かけて、別の大きな基地にいかなければなりませんでした。
ちょうど運悪く、そのころわたしは左足にギプスをはめていました。
というのも。
階段から落ちました。
あまりに痛かったので病院に行ったらレントゲンを撮られました。二か月後、痛みがなくなったころに病院から電話がありました。
「足にひび入ってるから今すぐ来て!」
もう治ってると思います。
ちゃんと言ったんですけど、「わかった、わかった」と言われ、痛くもないのにギプスをはめられました。「何色がいい?」と言われ、ショッキングピンクを選びました。
その足で運転し、ダンナを手術室に連れて行こうと病院に入りました。ちょうど戦争をしていて、某国の基地にはたくさんの怪我人が運ばれていました。
そこに、郵便配達のおじさんが通りかかりました。荷物を運び終え、大きな空のカートを押していました。
わたしたちを見て、青ざめました。
「なんで君は病人なのに歩いてるんだ!」
「いやあ、病人、って言っても鼻のポリープ……」
「車いすはどうした!」
まわりにいた人が、あたしたちを見て血相を変えました。
「今は全部使っていて、一台も残ってないんです!」
そして、そのおじさんはいいました。
「このカートを使うがいい!」
ありがとうございます、と言って、ダンナがカートに乗ろうとしたら、
「なんで君が乗ってんだ! 彼女の方だろう! さあ、乗って乗って!」
「いえ、ちがうんです。病人はあたしじゃなくて」
このギプスは、詐欺なんです! もうとっくに治ってるんです! 色が派手なだけなんです!
下手な英語で何度も伝えました。ダンナもうまい英語で伝えました。でもやっぱりおじさんには聞こえません。
こうなったらもう、通じている、いないの問題ではありません。おそらく、人というのは自分が聞きたい言葉しか聞けないようになっているのでしょう。
「何を言ってるんだ! 恥ずかしがることはない。困ったときはお互い様だ!」
みんなが応援してくれています。もう、乗らないわけにはいきません。乗ったとたん、その人はダンナに言いました。
「君、このカートを押して彼女を診察室まで連れて行くんだ、さあ、早く! ぼくもついていってあげるから!」
ポリープ患者のダンナがカートを押しました。おじさんは言います。
「みんな! どいてどいて! 患者が通るよ!」
そう。怪我人でもないわたしをのせたまま、患者であるダンナはがーっと全速力でカートを押します。みんなが狭い廊下の脇に寄り、道を開けてくれます(またこのパターンです)。
「何事⁉︎」
「コードブルーか⁉︎」
「急患だ!」
「どいてどいてーっ!」
その場に緊張感が走りました。すでに、後に引ける状況ではなくなっていました。
がーーーーーっ、と、滑車の音を響かせ、私を乗せたカートは進んでいきます。あたしたちをエレベーターに乗せた後、おじさんは言いました。
「もう、ここまでくればだいじょうぶだね。なに、礼はいらないよ」
そう言って、ドアが閉まるまで手を振ってくれました。私たちは丁寧にお礼を言いました。
郵便配達用のカートの上でピンクギプスをつけたまま佇む私と、そのとなりで付き添うダンナ。
すでに、なにがなんだかわからなくなっていました。
チーンと間抜けな音をさせ、四階でドアが開きました。
ちょうど、ダンナの主治医が前を通りかかりました。
彼女はあたしたちを見て言いました。
「あんたたち、なにやってんの?」
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