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LGBT初心者のために、今わたしが伝えたいこと

はじめに

 昨今、LGBTに関する法整備が検討されるようになった。そこには、G7加盟国における日本の遅れが指摘されたり、首相や首相秘書官が失言を繰り返したりした背景がある。海外ではLGBTという名称を悪用し利益を得た人がおり、そちらも非常にセンセーショナルな話題である。
 自分は性的マイノリティではないし、周囲にもマイノリティは存在しないから関係ないと思っている人は、多いのではないだろうか。少なくとも差別はしないからいちいち勉強する必要もないと思っている人が、あなたの周りにもいないだろうか。
 この記事自体は、昨年の8月から書いていたが、世に出すきっかけがないまま温めていた。今回、LGBT法案の整備が進められるのに伴って、「性的マイノリティについての正しい理解とは何だろう?」という大きな題を抱えた本記事を投稿することにした。

性的マイノリティについての正しい理解とは何だろう?

 突然だが、筆者は学生時代、境界性パーソナリティ障害の診断を受けた。一般人口の2%ほどの患者数であり、3~10%といわれている性的マイノリティの人口よりも確率は低い。この診断を当時のアルバイト先の店長に伝えたときの反応について、考えることがある。
 診断を受けたことを店長に報告すると、「しんどいね、わかるよ」と優しい目で見られ、シフトを一気に減らされた。シフトを減らされればどうなるか? 収入が減るのである。収入が減るとどうなるか? 医療を受けることが難しくなるのである。医療を継続して受ける方法はあるが、今考えたいのは、「わかる」とは何だ? ということである。もちろん、店長本人に疾患に対する理解があることは多分に納得ができるものの、筆者はこの時「正しい理解とはなんだろう?」と考えざるを得なかったのである。
 筆者にはゲイの元恋人がいる。大学時代の後輩で、交際して1か月も経たないうちに「自分はゲイである」と告白された。
 その告白を受けたとき、自分がどんな顔をしていたか心配になった。私は間違った顔をしていなかっただろうか? そもそも正しい反応とは何なのか。「この人はゲイで、普通の恋ができなくて可哀想」みたいな、同情じみた目を向けていなかっただろうか? 「しんどいね。わかるよ」と、軽率なことを言っていなかっただろうか? 何が「わかる」だ。わからない。筆者の性自認は女性で、体も女性で、恋愛対象となる性は男性だ。「何もわからない」が本音だろう。道徳や思いやりがあっても、知識がない。
 差別と区別は違う。「ホモ野郎のくせにノンケのふりして私を抱きやがって」と怒り散らかして殴りかかるのも違う。では何が正しいのか? LGBT関連法案がまとめられている今、「性的マイノリティについての正しい理解」をテーマに作品を鑑賞し、考えたことを述べていくこととする。

「L」―山本周五郎「薊」、「アデル、ブルーは熱い色」を通して感じるもの

「加川の御家名にも瑕がつくのです」--作品内で頻繁に「ゆきを」が発する言葉である。1959年初出の、山本周五郎「薊」の梗概を説明しよう(こちらは短編で、青空文庫にも本文があるため、比較的アクセスしやすい。時間的余裕がある読者には一読頂きたい)。主人公である加川銕太郎は、「ゆきを」という女性を妻に迎えたものの、「ゆきを」は男臭さがどうにもダメなのだという。「ゆきを」は、「このお願いを聞いて下さらなければ、私は自害するほかはありませんし、加川の御家名にも瑕がつくのです」と言う。銕太郎はある日、「ゆきを」が夜中、頻繁にうなされていることに気づく。彼が「ゆきを」の寝室へ行くと、「つる」という小間使の少女が彼女の夜具の中から抜け出るのを見た。「慢性的に腹痛を持っていて、つるに押さえてもらっていた」と「ゆきを」は言う。
 別の日、銕太郎は岡野弥三郎という男と口論になる。岡野は「ゆきを」を薊の花(=棘がある美しい花)に例え、「私の妹も傷ついたし、ほかにも傷ついた娘がかなりいるようだから」と言い残す。銕太郎は岡野から「ゆきを」が毎週行っている茶会に秘密があると言われ、ある日「ゆきを」が茶会へ行くのを尾行する。茶会の会場には「ゆきを」と、山岸しづという女性のみがおり、「ゆきを」は下着だけで横になっていた(小袖(着物の一種)や帯などが脱がれていた)。山岸しづと小間使の「つる」は、年齢こそ違えど容姿などの特徴は似通っており、そのことが銕太郎に強い印象を残す。
 物語の始めと終わりは銕太郎と弟の佐久馬のやり取りになっているが、全体には「ゆきを」の同性愛が横たわっている。「薊の棘に傷つけられる」という独特な表現で「ゆきを」を揶揄する岡野の登場が、本作では最も「ゆきを」の性的志向を象徴するだろう。小間使の「つる」、友人だという山岸しづなど、「ほかにも傷ついた娘がかなりいる」という。結果的に「ゆきを」は亡くなっているが、その死因や享年などは明かされていない。ただわかるのは、「ゆきを」が「加川の御家名に瑕をつけ」、「自害するほかありません」ということである。この作品が書かれたのが1959年、じつに64年前である。そのころには同性愛はそのように認識されており、かつ、現代でも「親を傷つける」「ひとりのままで死ぬほかない」と考えている人がいることを忘れてはならない。

「アデル、ブルーは熱い色」(2013年、フランス)は、「薊」と比べれば新しい映画作品だ。日本では2014年に公開され、著名人をはじめ多くの人に視聴された。高校生のアデル(アデル・エグザルホプロス)は、交差点ですれ違ったブルーの髪のビアン女性エマ(レア・セドゥ)に惹かれ、バーで再会し恋に落ちる。その包み隠さぬセックスシーンや演者たちの本気度から、カンヌ国際映画祭、ロサンゼルス映画批評家協会賞など4つの賞を得た。2時間を越える大作の中に派手なシーンはない。自然に撮られていて、だからこそ観客が自らの恋愛のスタイルを映画に重ね合わせてしまい、多くの人がこれをレズビアンに関する映画であることを忘れる。
 PRIDEパレード、バーなど、「恋は性の垣根を越える」。「幸せならそれでいい、本物の恋なら」。作中で印象的なセリフだ。
 ラスト20分ごろにあるアデルがエマの指をくわえるシーンは、少々衛生的に心配になったが、このシーンはエマの気持ちを作中で最も端的に表すものであったと筆者は思う。エマの「やめて」の言葉で終わってしまう短い逢瀬で、2人の恋は終わりを迎える。
 周囲の人間の裏切りが怖くてブルーの髪をブロンドへ変化させるエマ、その中でブルーのドレスを纏うアデル。この作品においてエマとアデルのすれ違いはグラデーションになっており、作品の序盤と終盤でその差が歴然となる。
 アデルとエマのファーストコンタクト、バーでの再会。
 エマがアデルを学校へ迎えに来る前と後。
 アデルをエマの家族へ紹介する時と、エマをアデルの家族へ紹介する時。
 エマと出会う前のアデルと、画廊で再会したエマと別れた後のアデル。
 とくに互いを互いの家族へ紹介するシーンはすれ違いの最も大きなものだった。アデルの父はエマに「彼氏の職業は?」と尋ねるし、アデルの母は「(芸術学生であるエマが)絵を描いて生きていくには支えてくれる夫が必要ね」と発言する(アデルの両親は、2人が交際していることを知らない)。山本周五郎「薊」から54年経ったころの作品である「アデル、ブルーは熱い色」における同性愛の受け入れられ方は、程度の差こそあれ変化はみられない。LGBTQに関して理解が少し広まったといえる現在でも、世界中に「親に申し訳ない」「女性だけで生きていけるのかという不安」が根底に蔓延っていることを、われわれは忘れてはいけない。

「G」―「マイ・ビューティフル・ランドレット」、「チョコレートドーナツ」を通して感じるもの

「マイ・ビューティフル・ランドレット」(1985年、イギリス)という映画について、ジェンダー表現の観点からも論じていきたい。
 ロンドンにてアルコール依存症の父親と暮らすオマール(ゴードン・ウォーネック)は、叔父のナーセル(サイード・ジャーフリー)が所有するコインランドリーの経営を請け負う。オマールの一族はパキスタン系であり、ある晩、右翼の人種差別主義者に車を壊されそうになる。オマールはその中に旧友で白人のジョニー(ダニエル・デイ=ルイス)を見つけ難を逃れ、その縁でジョニーと共にコインランドリーの修復を目指していく。コインランドリーを経営していくなかで、オマールとジョニーはホモセクシュアルな関係を築いていく。
 この作品の主題は同性愛のみではない。「男性」という立場、特定の人種に対する「差別」、金と薬が密に絡み合う「裏社会」。タニア(リタ・ウルフ)との結婚話も出てくる。
 パキスタン系のオマールは白人の人種差別主義者から虐げられ、結婚や仕事、大学への進学など、「男性」としての立場を親族から求められる。白人であるジョニーにとっては、周囲が移民で溢れかえり、アイデンティティの確立が困難になる。そんな中で自身の性的志向(=オマールに対する愛)を抑え込むことは、ジョニーにとって完全に自分を失うことであり、ジョニーがこの作品において不安定な存在であることを裏付けている。付いたり離れたり、上手くいったりいかなかったりする彼らの存在をスクリーン越しに見ることは、筆者にとって不安定な自己を再認識することにも繋がった。各々が各々の悩み方をしており、だれが観ても登場人物の誰かしらに感情移入せざるを得ない作品だった。

「チョコレートドーナツ」(2012年、アメリカ)という映画は、ゲイのカップル(ルディ・ドナテロ、ポール・フラガー)がダウン症の少年(マルコ)を迎えて家族のように過ごし、そしてその親権をめぐって世間との衝突に摩耗していく物語であり、その脚本は実話に基づいている。歌手を夢見るルディ(アラン・カミング)はショーパブのパフォーマー。ポール(ギャレット・ディラハント)は検事局で働いている。ダウン症のマルコ(アイザック・レイヴァ)はルディの隣室に住む女性の息子であり、育児放棄を受けていた。ルディらはマルコを保護し、家族のように過ごしていく。
 ルディ・ドナテロ役のアラン・カミングは、自身がバイセクシャルであることを公表しており、2007年には同性婚をしている。
 ゲイのカップルとダウン症の少年という、世間からは「普通」と思われない人間がともに、かつ幸福に暮らすことは、世間が許さない。「チョコレートドーナツ」は、ゲイカップルの養子縁組について、法的な壁が目に見えて立ちはだかってくる作品だ。近ごろ話題になっているLGBTQ法案について、今回は触れないでおくが、のちに記事にできたらと思う。
 マルコは最終的に亡くなってしまう。しかしそれ以前に、ルディとポールが保護しなければ、マルコの母親によって(たとえそれが直接手を下されるわけでなくても)殺されてもおかしくなかったのである。マルコは、ゲイに殺されてなんかいない。それなのになぜ、世間全体で同性愛に対して偏見の目を向け、差別の対象とするのか。「チョコレートドーナツ」は、いい意味で「超問題作」だ。

「B」―「おっさんずラブ」を通して感じるもの、「同性愛者」と「異性愛者」の脆弱な関係性

「おっさんずラブ」(2019年、日本)はよかった! と思う読者も多いのではないだろうか。筆者も(林遣都が特に)好きだった。筆者はテレビドラマ版のシーズン1のみ視聴しているが、「ゲイ」といわゆる「ノンケ」の恋愛は実際にはここまで上手くいかないのではないかと感じた。黒澤武蔵(吉田鋼太郎)が自身がゲイであることを隠したうえで黒澤蝶子(大塚寧々)と結婚生活を送っていたこと、黒澤役の吉田鋼太郎の生まれ年が1959年であり、山本周五郎「薊」の発表年と同じであることが、この作品に垣間見えるゲイ男性のリアルでもあるだろう。
 なぜこの作品を「B」の項目に入れるのか?それは、春田創一(田中圭)と荒井ちず(内田理央)の恋愛描写が薄らとあるからである。牧凌太(林遣都)とちずから向けられる好意の間で揺れる春田の心は、もはや「ストレート」のものではない。
 筆者はビアン女性と交際したことがある。彼女のことが本当に好きで、その「好き」は「ストレート」から同性の友人に向けるそれとは大きく異なることは自覚していたが、最終的にこちらからお断りしてしまった。「そこに愛があっても、性的志向にそぐわなければ交際を続けるのは難しい」ということを知ったうえで「おっさんずラブ」を視聴したため、少しでも牧と春田の関係が悪化すると冷や冷やしたのを思い出す。
 自身がゲイ男性と交際して振られたいま、改めて「ゲイ(ビアン)」と「ストレート」の関係の脆弱性を感じている。筆者がゲイである元恋人のことを好きになったように、彼らにも好きになれる男性がいつか現れることは明らかである。その時に立ちはだかる法や差別が、現在よりもましなものであることを祈る。わたしたちは、より多くの人が等しく法の保護を受けられるようになるために考え続けなければならない。

「幸せならそれでいい、それが本物の恋なら」。
(『アデル、ブルーは熱い色』より)

「T」―吉本ばなな「キッチン」、「ミッドナイトスワン」を通して感じるもの

 吉本ばなな「キッチン」(福武書店、1988年)は、きっと多くの人が読んだことがある名作だろう。大学生の桜井みかげが、唯一の親類であった祖母を亡くし、同じ大学の雄一とその母・えり子と暮らすようになる物語だ。えり子は出生時の体の性別は男性で、雄一を産んだのはえり子の妻だ(若くしてガンで亡くなっている)。そんな3人のつながりを、キッチン(厨房、台所)を愛するみかげの視点を通して描いていく作品だ。本来であればこの作品におけるトランスジェンダーの扱われ方を紹介したかったのだが、えり子の死に際してみかげがふと考えたことが筆者の脳に残っており、今回はそれを紹介するにとどめる。

「幸福とは、自分が実はひとりだということを、なるべく感じなくていい人生だ。」
(「満月ーーキッチン2」(吉本ばなな『キッチン』)より)

「ミッドナイトスワン」(2020年、日本)は、わりと新しい映画だ。映画ファンからの評価も高く、ゴールデン・マルベリー賞などを受賞している。監督である内田英治氏の小説版を読んでいないから、そちらには触れられないことを先に詫びておく。
 凪沙(草彅剛)はニューハーフショークラブで働くトランスジェンダーで、普段は女性の格好をしている。虐待を受けていた親戚の少女・一果(服部樹咲)を預かることになり、共同生活を始める。一果は同級生の自殺や虐待、凪沙は転職や性適合手術などを経ていくが、作品の中で現代社会を最も端的に表していたワンシーンがある。
 ある朝、一果が目を覚ますと、短髪に作業着で、男性の姿の凪沙がいた。一果にバレエを続けさせてあげたい、しかしそのレッスン料や衣装代は、「一果の恥になるような稼ぎ方をしたくない」。凪沙は一果の母親でいたかったが、そのときは、叔父になることを選んだ。それまでスクリーン越しには凪沙は凪沙で、草彅剛という俳優とは違って見えていたが、そのシーンがスクリーンに映し出された瞬間、草彅くんだ、と認識できてしまい、筆者は思わず泣いた。一果が凪沙のその姿を認めて泣きじゃくり、2人が抱き合うシーンは、母娘にしか見えなかったのである。そのシーンを輝かせたのは、2人の演技力と、残酷だが社会からトランスジェンダーへ向けられる厳しい視線だった。
 広義のトランスジェンダーの当事者が、性自認にそぐわない服装や態度を強いられている(厳密にいえば、生物学的な性に則った服装や態度のみが認められている)ことは現代でもたびたび問題になる。性犯罪の法廷において、生物学的には男性である加害者が「性自認が女性であるから」と主張し、被害者以外の関係者が全員、加害者を「She(彼女)」と呼ばざるを得なかった例もある。広義のトランスジェンダーが抱える問題に限ったことではないが、それらの問題を解決しようとすると、どこかで悪用されてしまい、人々の権利が著しく侵害されることになる場合もある。早急な法整備が求められるが、早急であれば雑でもいいというわけではない。慎重に、かつ迅速に検討されるべき課題であるといえるだろう。
 余談だが、この映画では吉村界人という俳優の底力を見た。フジテレビ系「グッド・ドクター」(2018年、日本)では自閉症の青年の役を演じている人物が、この作品では新宿の夜で仕事をするニューハーフ・キャンディの役を演じていることに、筆者は驚きを隠せなかった。彼は何者にでもなる。彼は今後もずっといい役者になっていくだろうと思う。

「うちらみたいなんは、ずっと1人で生きていかんといけんのんじゃ。強ならんといかんで」
(『ミッドナイトスワン』より)

 ゲイである元恋人も言っていた。「もしかして俺は良い人に出会えなければ一生1人で生きていかなきゃいけないかもしれない。俺はゲイだから」と。
 人間は誰でも、「強ならんといかん」。でも、「ずっと1人で生きていかんといけんのん」か? 何がそうさせるのか?
 吉本ばなな「キッチン」でも、「自分が実はひとりであること」を感じることは「幸福」とは呼べない、とみかげが考えるシーンがある。しかしながら、マイノリティの人々には常に「1人で生きていかなければいけない(1人で生きていくしかない)」という思いを持たざるを得ない事情がある。

おわりに(読書案内)


「性的マイノリティについての正しい理解とは何だろう?」という冒頭の問いについて、正直、LGBとTは分けて考えるべきであり、性的マイノリティに対する正しい理解は知識の中にある、というのが結論である。
「私はLGBTの人々を差別しません」という文言をよく耳にする。そしてその大半が、「オネエキャラ」や「ホモ」などのエンタメ的消費を楽しんでおり、「オネエは話が面白いから許せる」「BLが好きだからゲイも許せる」など、「許せる」という基準でいる。つまり、「話の面白くないオネエは許せない」「BL漫画のように見目麗しい男性同士のカップルではないから許せない」にもなりうるのである。
 いわゆる「オネエ」や「ホモ」などが「許される」ようになったのは、オネエタレントやボーイズラブの流行など、マジョリティへのすり寄り(「努力」であるともいえるだろう)があったからである。しかし現代で求められているのは、「許せる・許せない」や「思いやり」ではなく、正しい知識である。興味がないから調べない、けれど「ホモ」や「レズ」には私は寛容だよ、というのは、きっかけさえあれば「許せない」に転じうるのではないだろうか。
 ゲイカップルとレズビアンカップルでは経済的に格差があること、広義のトランスジェンダーには狭義のトランスジェンダーやトランスセクシュアル、トランスヴェスタイトという分類があること、エイズという病気が流行したことなど、知識として入れておいて損はない書籍がある。森山至貴氏「LGBTを読みとく――クィア・スタディーズ入門」(2017年、筑摩書房)である。森山氏のこの「教科書」は、LGBTに興味があり勉強をしている人はもちろん、これから勉強したいという人や、知識が全くない人も必携である。
 LGBTQに関する法整備が検討されるなか、現在すべての人に求められているのは知識であり、知識は性的マイノリティについての正しい理解につながるだろう。今後もLGBTQの人々に関し、正しい知識の普及がなされることを願って、この記事を締めくくることとする。

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