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講義型ネイティブ教員の授業改善(失敗編) 

 生まれも育ちも「講義型授業世代」です。
 これが「生徒の主体性を引き出す」「生徒が主役」「対話で考察を深める」に挑戦。舞台は、県庁所在地の中堅進学校。学年8クラスの大規模校で、国公立現役合格100名が目標という感じ。つまり、「国公立2次の記述」がポイント。しかし、センター対策で時間がかかり、2次対策が追い付かない。このあたりが、「主体性・対話・書く」ことについて、「教員×生徒」に共通する動機になります。
 しかし、「下手なファシリテーションで進める授業」より、「がっつり講義」の方が効果が高いわけで、このあたりは生徒さんの時間を奪いつつ、試行錯誤となります。

◆対話が進むクラス、進まないクラス
 クラスによって手ごたえがかなり異なりました。
 意図をつかんで活発に対話が始まるクラスもあれば、対話を露骨に嫌がるクラスもある。後者のクラスでは、「全員が取り残される世界」という、SDGsの精神を完全否定した状況になります。
 クラスの人間関係とか、まとまりとか、ボスの支配力というものが、如実に出ます。で、これを「クラスのせい、担任のせい」にするのは間違い。ファシリテーションの未熟、ファシリテーター能力の低さが、そういう「授業格差」を生んでしまうのですね。
 クラス内にある「負の要因」を解消するくらいのファシリテーションが必要、もちろんそういう授業デザインも必要。無理なら「講義型」で進めることも必要。単元全体の中で「対話型」をどういう風にあてはめていくかという発想も必要。で、そんなことはどんなテキストを読んでも書かれていない。ただ、『学び合い』のテキストに、「週1回から初めてみよう」とあって、これに救われました。

◆「書く」ことを振り返りに取り入れてみる
 初心者の発想で「振り返り」を授業に取り入れました。
 「振り返り」については、テキストがいろいろあって、取り入れやすかったということが大きいです。ここで、100~200字程度の記述も入れてみましたが…なかなか難しいです。
 「振り返り」より、「授業アンケート」と化してきました。私の振り返りになっているんですね。もちろん、その内容から「授業改善」を進めるということは可能です。しかし、「生徒さんが自分の内面を向き合って言語化を進める」という方向にはいかないのです。
 
◆「事実」を根拠としない「解釈」が先走りする
 よく言えば「感性」の言語化なのですが、実態は「感情論」。
 本文を根拠とせず、自分の「感想」「主義主張」を根拠とした意見が飛び交う。さもなくば、「とりあえず本文の理解できた部分・切り取った部分」を根拠として批判的・否定的主張を繰り返す。その対話の不毛さはなかなか深い。「先生受けのよい積極性が高い生徒さん」が、「解釈根拠」の議論を引っ張ります。これに対し「事実根拠で考察できる大人しい生徒さん」たちは、「この対話・議論に何の意味があるのか」という顔をしています。
 そして、議論の終点は「賛成か・反対か」「正しいか・間違っているか」「好きか・嫌いか」に向かいます。クリティカルって、そういうことではないぞ。

◆定型的結論に向かう対話
 「儀式化」ですね。定番の意見を交わし、定番の結論を書く。
 「大人がよろこびそうなこと」「こういうことを書いて欲しいのでしょ」といわんばかりに美辞麗句が並ぶ。
 ただ、これを繰り返しているうちに、「もう書くことがない」「毎回同じことを書く振り返りに何の意味があるのか」となります。
 対話を授業に取り入れることへの拒否反応ですね。
 ただ、このような記述がヒントになりました。生徒さんも「定型的対話」をしていることに気づき始めたと言えるでしょう。そのことが「無意味」であることへの自覚も。
 ここから、少しずつ事態の打開が始まります。
                       (つづく?)
 

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