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多数決は正しい結論を導くのか(4)

 高校で進学校に進んだ生徒さんの悩みは、「中学時代よりも成績が下がること」。この場合の成績とは「席次」。中学時代まで、常に順位で一桁だった成績が、人生初の二桁、三桁まで下がる。
 ここでは、定期考査全科目の総合点が1点違うと順位が50位くらい上下する。ですから、「順位にこだわないこと」「みんな優秀なこと」を伝えますが、なかなか割り切れない。しかも、「教科書・参考書・問題集」の三点セットでのちに東大現役合格するような「本物」を見てしまうと、自己肯定感が下がる。それは、私もよくわかります。努力だけでは超えられない壁を知ってしまうので…。

経験では超えられない壁を感じる

 西暦2000年を迎えつつある頃、私の悩みは授業の構築。
 生徒としても教員としても、授業は「講義型」しか経験していません。
 ゼミや大学院では「対話型」でした。ただし、参加者は10名以下です。これを40名の教室で行うのは…です。
 教員には、「一般学部で教職を取った人」と、教育学部で「教育学を学んだ人」とがいます。文学部出身の私の場合、「教科の専門性」はそこそこでも、「教育学の知識・素養」はほぼ0。
 一方で、教育学部卒の先生は、教育理論・方法論を活用して授業を構築しています。いわゆる「生徒主体の対話型授業」を進めている。
 というわけで、泥縄式・我流の独学が始まります。

参考になったのは医療の変化(医療倫理の発想)

 小説「白い巨塔」(山崎豊子)で描かれるのは、カリスマ教授の栄光とその落日。トップダウンの組織、偉い教授様に群がり依存する社会の限界。
 そして、医療の主役は「医師」ではなく、「患者」になります。「インフォームドコンセント」などの発想が生まれ、患者は「セカンドオピニオン」を得つつ、受ける医療を選択することができるようになりました。
 同じことを、学校でもと考えました。
 学校・教育の主役は「生徒さん」であり、「どんな授業・知識・経験を求めているか、必要なのか」を話し合い、さらに、「模擬試験・予備校の授業」などからセカンドオピニオンを得て、学びの内容や方向性を決めるということ。
 ティーチングから、コーチング・ファシリテーションですね。またその頃、教育現場に「発達障害」という言葉も入ってきました。
 総合すれば、「管理する」「教え込む」ではなく、「主体性を刺激する」「引き出す」です。
 とは言え、それを実際の授業にどのように落とし込むかはなかなか難しい。それでも、「最近の生徒は自分で勉強できないから」という言葉で諦めるのではなく、「~できないから、○○という工夫をする」と考えるようになりました。目の前の生徒さんの実態を起点に、授業を構築するということです。

中動態という言葉との出会い

 当時の多くの教員の悩みは、「受身の生徒が増えた」。まぁ、「受身にしたのは誰だ」と思いますけど…。
 とはいえ、生徒さんの「やる気を刺激する」「モチベーションを高める」「授業中にゾーンにはめる」というのはなかなか難しい。ある意味で「職人芸」と思っていました。そんな時、中動態という概念を知りました。
 「受動~中動~能動」、受動と能動の間に「中動」があるのです。
 時代は、「生徒の主体性・自主性を尊重すること」が、「無責任な放置」という結果に傾くことが多くなってきました。その防止のための「管理」という新しい悪循環も始まっていました。
 そこに「中動態」という発想をあてはめてみました。
 「登るべき山の高さを提示する」と自力登攀し始める生徒さんがいます。
 「技術的な解法」を伝えると、その方法で過去問を解き始める生徒さんがいます。
 「なぜ勉強しないといけないんですか~」という生徒さんに、「何でだと思う?」とオウム返しすれば、自分なりの理由を言語化し始めることもあります。
 ただし、このような対応に「即効性」は期待できません。長い目で根気強く提示し続けること、問い続けることが必要です。整理するとこんな感じ。
 ①自力登攀できる生徒さんは、過去問から。
 ②技術的解法を求めている生徒さんは、基本的な問題演習から。
 ③なぜ勉強しないと…という生徒さんは、対話から。
 これを授業では、「③→②→①」と進めるのを基本形としました。

もちろん、これですべてが解決したわけではない

 授業スタイルを変えたことで、個人的には楽になりました。
 考えないといけないこと、学ばないといけないことが増え、授業準備は大変になり、睡眠時間を削ることになりました。しかし、それまで心の底にあった「教育への違和感」はかなり減少しました。
 ただ、これは私の未熟でもあるのですが、「先生は正解を示す存在である」「短期的な成績上昇、即効性の高い勉強法」を求める生徒さんには圧倒的に不評です。
 もっと遡って「前提という根源」まで掘り下げる必要があるようです。
 それは、多様な価値観があふれる教室で、その接点を見出すことと考えました。共通性・共感性を導くことが、多様性を認め合うという逆説です。

 と考えたのですが…、それは私が学生だった昭和の教育、教えるという仕事を始めた平成の始まりでは、当たり前というか、前提と言うか、社会の共通認識であったような気もします。
 そもそも人は異なる価値観をもつ存在です。
 だから、「理解しあう努力」が必要。
 それが、コミュニケーションの始まりということ。
 ただ、私のこのような発想は、地域とのつながりが弱い東京の私立高校・私立大学で無意識に身につけたものだったようです。地域とのつながりが濃く、親子三代同じ高校の卒業、同級生は幼稚園からの幼馴染という生徒さんが形成する「ハイコンテクスト社会」では、「人は同じ価値観を持つ存在である」が前提。そこで行われるコミュニケーションとは「排除の正当化」であることが多いです。
 というわけで、これを「学問で裏付け、授業として構築する」ことが必要となりました。
 精神論や道徳的な抑圧ではなく、学問で立証・納得を導く。
 まだまだ先は長い…。
                      つづく…
  
 

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