逆説が理解できない高校生 4

 書いている話題は、平成7~10年頃のこと。
 私が公立教員になってまだ若手の、28~25年前のこと。
 その頃教育現場にいた人は、もうかなり少ないでしょう。
 当時の高校生は現在40代の前半。
 スカートが短くなり、ルーズソックスが流行り、ピアスや携帯電話が普及し始めたのがこの頃。職員室ではまだ煙草が吸えて、PCはまだ配布されていません。夕方4時過ぎるとベテランの先生方が休憩室で囲碁や将棋に興じていました。しかし、学校5日制がスタートしたこの頃から、勤務が長時間化します。
 そう考えると、今の現場の原型はこの頃できたのかもしれません。

学校が嫌いといいつつ休まず登校する、
学校の先生に恨みがあるといいつつ話しかけてくる

 教員になって最初の学校で、いわゆる荒れたグループから脅迫や授業妨害などを受けました。私はまだ軽い方で、適当にあしらうこともできましたが、教員になって初めて担任を持った先生のクラスと授業とは崩壊して休職し、学年主任は失踪しました。
 当時の彼らの口癖は「むかつく」「恨みを晴らす」。その対象は教員。
 当時の私の疑問は二つ。
 ①先生に何をされたのか
 ②そんなに嫌な場所と嫌な人がいるのに、なぜ皆勤賞なのか。

 いわゆる「持ち上がり」ではなく、3年生になって初めて出会っていきなり「担任と生徒」の関係になりました。4月の新学期早々に「恨みを晴らす」と言われても、「私何かした?」が正直なところ。
 個人的な恨みなのか、教員という存在に対する憎悪なのか、こちらもいろいろ考えますがわかりません。身に覚えがないというべきか…。

のちのちわかったこと

 「恨み」については、やはり一部の教員の暴力のようです。
 その先生たちは異動して、今はもうこの学校にいません。
 殴られた彼らにとって、自分が学校の先生に怒られ、無抵抗で殴られたというのは格好悪いことのようです。また、殴られたことには恨みを持っていますが、基本的にはその先生のことが好きであり、信頼をしていて、仲も良いという状況もありました。親同士が飲み友達とかも。そういうわけで、彼らは、暴力を受けたという事実を、その先生個人の問題にするのではなく、「学校の先生への恨み」という概念的なものに転嫁するのです。で、その先生は異動してその学校を去り、その代わりに担任となったのが私。
 そして、私に向って「先生むかつく」「どうせお前も暴力を振るうのだろう」「この暴力教師」と言います。当時はまだありませんが、SNSがあったら大変ですね。SNSに書き込めば、加害者認定されるのは私。この誤解と言うか、冤罪と言うか、彼らの思考のすげ替え・思い込みを世間の人が理解するのはかなり難しいでしょう。昔でよかった…。
 という事実を整理しながら、私は一つの仮説を立てます

自分のことを嫌いな人に好きになってほしい??

 彼らが先生を嫌いなのは、先生はどうせ自分たちのことを嫌っているはずだから…ということみたいです。
 先生は勉強ができない生徒が嫌い(勉強ができる生徒が好き)から始まって、先生は自分が嫌いなはずだという理由を述べ立てます。そこから立てた仮説は、こんな感じ。
 「自分のことを認めてくれない人に認めてほしい」
 「自分のことを傷つける人にかまってほしい」
 「自分を嫌っている人に評価されたい」
 「自分が嫌いな人に認めてほしい」
 激しく逆説ですが、それだと辻褄があうのです。
 俗にいう「嫌い嫌いも好きのうち」とは、少しニュアンスが異なります。   
 「嫌い」なのです。しかし、「自分が嫌いな人に好きになってほしい」「自分を嫌っている人に認めてほしい」です。
 

これは心の動きとしては危険ではないか…

 「自分のことを傷つける人にかまってほしい」という被害性と、「自分が嫌いな人に認めてほしい」という加害性が、一人の人間の中に同居しているんですね。複数の人間関係だと共依存になりそう。
 「そういうことか…」と自分なりに理解・納得した時、当たり前のことですが、生徒とは「公的な関係」であることを崩さずにと思いました。
 生徒と私的な関係性が生じると、その時、私は暴力の対象になるはずです。まだ「生徒との距離が近いのは良い先生」という価値観は残っていました。しかし、それは諸刃の剣。
 わが身を守るためには、生徒さんとの距離感が大事であること。適切な距離を保つには、こんな状況でもネクタイを締め、笑顔で教室に入り、きちんと授業をすること、つまり「立場を演じること」が荒れの対策であり、わが身を守ることであることがわかってきたのです。

                          つづく 
 

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