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終戦の日によせて - 祖母の手紙 -


『若い人達に戦中戦後の話はつまらないでしょうが、でも決してくり返してほしくないのです。戦争は、若い人達の命を失わせただけではなくて、夢も希望も何もかも失わせたの。親も祖父母も兄弟姉妹も子供達もみんなうばわれた人達が、どんなに沢山泣いた事か。』

祖母からもらった手紙の中の一文です。

その手紙で戦中、戦後の体験を書いてくれました。手紙の内容を抜粋したり順番を変えたりしていますが、文章はなるべくそのままの表現で載せます。

北海道小樽市出身の昭和3年生まれの現在94歳の祖母は、終戦時17歳。

青春時代は戦時中でした。

『戦中は、空襲警報の度に、夜中に足にズボンの上から、ゲートルを巻き、鉄カブトを背に、十五分以内に職場へかけつける非常参集員の一人として、頭上にアメリカのB29の翼の下の青い光を見上げ乍ら、暗い夜道を走ったのよ。

「何の為に?って?職場を守るためよ、火が出たら消す為にね、バケツリレーで水をかけるの」

(戦争は、時に、とんでもないことをやらされるものなのです)』

『その頃の日本は戦中も戦後もそれは大変でした。

昭和21年に、私の父が肝臓で急死して私が十八才でした。母と姉と私の三人の生活を姉と私と二人の働きで支えました。

何も配給が無ければ何も売ってない。着る物も食べ物も、何も無い、自分で探さなければ、生きて行けない大変な時代でした。

配給品だけを食べて、生活して餓死した検事さんが居て新聞にのりましたが・・・

「我が青春に悔なし」と言う映画が来た頃、戦後の若者はみんな「我が青春に食い物なし」となげいたものです。

私達は土曜、日曜を利用して、農家へ買い出しに行き農家の仕事を手伝い、いも掘り等してね。

帰りに、おいもはじゃがいもですが、かぼちゃ等を売ってもらい、三十キロも背中に背負って、駅迄歩いたの。いとこ(私と同年の)と二人でね。

いも掘り、そば刈り、デントコーン刈り、何でも手伝いましたよ。農家の仕事は楽しかったの。

土曜日に行って泊って、日曜は朝早くから手伝いして、しぼりたての牛乳をわかしてくれて、暖かいところを御馳走になり、もぎたて、ゆでたてのとうもろこしをアツアツを、甘くておいしくて何本も食べてそば粉のおだんご入っただんご汁をおかわりして食べたの。

それからいとこと二人で、じゃがいも30㎏背負って、4㎏の大きな札幌キャベツ一ヶを片手に、一升瓶にいっぱい詰めた牛乳を、片手に夕暮れの道を駅まで急ぐ、いとこが走るので私も走る、本当に笑ったり、苦しかったりの辛いけど楽しくもあった買い出しでした。

洋服も一枚も売ってなくてね、古い物を着物でも何でも仕立て直して洋服にして着てました。

が或る時、小樽の中心の一軒の店で、ピンクの地に花模様の布生地を売り出したので忽ワッと若い女性が並んで行列して買いました、私もです。

一メートルか一メートル五十センチづつしか売ってくれないので、二ツに折って三角にして頭にかぶるスカーフにしたの。

風雪を防ぐので、翌朝家から職場へ向って歩いたら、通りを行く女性も来る人もバスから下りる人も誰もが、みんな同じスカーフをかぶって何十人もの人、何百人の小樽の若い女性が、みんな・・・同じもようの・・・

今なら笑ってしまう、笑い話よね、でも、その時は誰もが笑わない、笑えない現実でした。

私達の、やっと与えられた、ピンクのスカーフを並び、かぶって歩いた、これが私達の青春でした。』

また、祖母には戦後、アメリカ行きの話もありました。

『終戦後お友達の一人がアメリカ進駐軍の将校さんの家庭のメードになって居て、同じような将校さんの家庭でメードを募集して居るので私にどうかというの。試験は易しかったのよ。分数の計算が出来れば英語は出来なくてもいい、教えるからだんだんに覚えたらいいとの事で、日本から引き揚げてアメリカへ帰る時に、一緒に行って、向こふでも、ずっと働いてもらいたいとの将校さん夫妻の希望でした。

あの頃若い私は夢見る乙女でね・・・本気で考えたの。(占いに、私の手相に、若い時に、遠く遠く海を渡ると出て居ると言われて、信じてね)

その頃一般の人は船で行ったのよ。アメリカの将校さん一家と一緒に行けば飛行機で行けたのね。

でも行けば、しばらくは何年もの間帰れない遠い国でした。

一大決心が必要でした。私の家族も反対したの。で・・・決心が出来ず、結局、行かなかったけど・・・行きたかった・・・』

この話を初めて聞いたとき、もしその時祖母がアメリカへ渡っていたら、母も私もこの世にいなかったのだと思ってとても不思議な気持ちになったのを覚えています。

そして今私がアメリカに住んでいるということもやはり何かの縁に導かれたのかもしれないという気がしています。

『終戦になって、二十才になり少しづつ人生観が変りました。そうして思う事を口に出して自分を発表できる人間になって行き、職を変えました。何でもズバリと言う事の出来る人間に変って行きました。

「戦後の日本は、靴下と女性が強くなった」と言われたとおりです。私は少し強くなり過ぎた様です。あとで職場で三女傑の一人と言われましたが・・・女性はやさしい方がいいですね。

長くなりました。おばあちゃんの第二の人生の話は、次の機会に致しましょう。(今は第三の人生でしょうか)第二の人生も、山あり、谷ありでしたが、楽しかったと思います。

あいちゃんは、これから山や谷を越えて、幸せをつかんでね。女性として、やさしく、強く、そして人を救け乍ら自分をも大切にして、幸せになって下さいね。身体に気をつけて・・・じゃあーね、お互に元気で、又お手紙しましょうね。』

『追伸

若いあいちゃん達に年寄りの思い出話はね、戦中戦後の話はつまらないでしょうが、でも決してくり返してほしくないのです。

戦争は、若い人達の命を失わせただけではなくて、夢も希望も何もかも失わせたの。親も祖父母も兄弟姉妹も子供達もみんなうばわれた人達が、どんなに沢山泣いた事か。

戦争はしないで話し合いで解決してくださいね。いろいろな国の言葉も学び、それぞれの国の事を学び理解して、話し合いで何事も、解決して下さい、お願いします。

お父さんお母さんを大切にしてね

小樽のおばあちゃんより』

約10年前に祖母が送ってくれた手紙の内容ですが、自分の中だけにとどめておくだけではもったいない、祖母の想いを周りの人にも伝えたいと思ったので投稿しました。

この祖母の手紙を通して、何か少しでも感じたり考えていただけたら幸いです。

終戦から今年で77年。私たちは戦争体験を直接聞くことのできる最後の世代かもしれません。忘れないこと、語り継いでいくこと、想いをつないでいくことが平和な世界を作っていくために私たちにできることなのではないかと思います。

ここまで読んで下さった方、ありがとうございました。

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