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MBA卒業しましたレポート②:踊る阿呆でいいんですか?(入学~2022年夏)

こんにちは。さすがに暖かくなってきましたね。ありがたい。
でも花粉は勘弁してほしい。

前回、MBAに入学して強い奴を蹴り倒すぞ~と張り切っていた後、どんな感じで過ごしていったかをじわじわ書いていこうと思います。

最初は1年目、2年目の2分割にしようと思ってましたが、だいぶ分量増えそうだったので、チマチマと5,6分割くらいにする予定。
いや、考えたことが色々あったんだなあと自分でも驚いています。


入学に当たって決めたこと

いざ入学と腹をくくるに当たり、先に色々心構えておいたほうがいいなと思い、方針をいくつか決めていた。

なんせ専門実践教育訓練給付金込みで約200万2年をぶっ込むのだ。無為に浪費した際のダメージが計り知れない。
金だけで言っても、1年は楽勝で地方都市の生活防衛できる水準の金額だ。

というのと、曲がりなりにもビジネスを学ぶ人間として、これだけの大量のリソースを突っ込むのになんの戦略もない時点でもうダメでしょという、今思えばしょうもない見栄みたいな感情もあった。

決めたのは3つ。

①優先順位は「①仕事」「②講義」「③課外活動」「④プライベート」

これは単純な話、本末転倒にならないように優先順位を付けたらこうなった、というもの。
この時、仕事ではいつ終わるか分からない大きなプロジェクト、それも人生で1回来るか来ないかという希少なものに携わっていたので、仕事を削ることはあり得なかった。

次に学内でどういうバランスで活動するかだが、自分の場合、そもそもの目的が強い奴を蹴り倒すなので、講義を緩めて課外活動をやってちゃ本末転倒。
また学校側やOBOGからは「人脈を作れ」「Giveをせよ」という話をものすごく言われたが、それは結果であって目的にするものではないし、講義でディスカッションすりゃ大なり小なりできるでしょ、とも思っていた。

実際、自分は戦うことでしか分かり合えない的なタイプだという自覚もあった。食事や宴席の場では出てこないけど、仕事の中ではその人の本性とか信念が無意識に出てくるというか。
そういう本性を講義内で見たかったし、それこそが自分の「人脈づくり」だともこの時から感じていた(今も間違ってなかったと思っている)。

②できるだけ対面講義で履修する

講義は対面開催かオンライン開催かを選択して履修できるようになっているが、できるだけ対面講義で受けようと決めていた。

自分の仕事柄、面談や聴取をする機会が多いから神経質なだけかもしれないが、やはり視覚情報が不完全だと読み切れない部分がある。
手の動きとか視線のやり場とか、こちらの発言に対する反応度とか。

あと意外と大きなところとして、ちょっとした質問や雑談、笑いといった要素がオンライン会議ではなかなか難しい。
こういうところから派生した話が有益だったりするし、かつ記憶に残りやすかったりもする。親近感が生まれるのもこういったタイミングだ。
対面の場ではこういった「余白」があるが、オンラインはそれが無いというか。これは性質上どうやってもなかなか対等にはならないんじゃないかなと感じてます(会社の会議とかもまさにそんな印象)。

実際には2年目からはオンラインしかない科目を履修していたこともあり、4,5科目程度取っていたので、今思えば食わず嫌いな面もあったかも。
ただ上記の印象は間違ってはいなかった気がする。

③好成績を目標にしない

これも繰り返しの話になる気がするが、成績はアウトプットの結果であって目的ではないので、「クラスで1番になるぞ~」とか「最高評価を取るぞ~」とかに全てを捧げるようなことはしないと決めていた。

もちろん、強い奴を蹴り倒すために総力を挙げて臨むんですが、露骨に「無理やり挙手して発言数増やすぞ~」とか、「なんかいい事言って好評価もらうぞ~」とか、そういうことじゃねぇんだよ、という感覚(これでなんとか伝われ!)。

あとシステム上相対評価なので、こだわったところで実力値とリンクしないというのも大きい。
相対評価ということは、理屈上は(嫌な言い方だが)周りがショボいほど好評価になりやすく、強者ばかりだと評価が厳しくなる。究極、ショボい人が集まるクラスに入り続ける(実際は他のメンバーが誰かなんて分からないので実現不可能だが)のが成績上は最適解ということになってしまうが、そんな本末転倒な話はないだろう。

4~6月:フルコミットのはじまり

そんなわけで本格的に履修開始。
ここからは科目履修ではなくなったので、この辺りから土日の時間はほぼ勉強に突っ込んだ。
期中に課されるレポート作るために1日/期は有休を取るようにもなった。(3ヶ月に1日有休を取るようになり、むしろ健全性が増したと評価できる)

これは「良い成績取らなきゃ!」とか「時間かけないとついていけない……」とかというよりは、相変わらず講師陣が「強い奴」ばかりで、しっかり考えを練って色々ぶつけていったほうが単純に楽しそう、という気持ちが強かった(この気持ちは卒業までほぼ変わらなかった)。

実際のところ、講義はどれも毎回有意義で、かつムダもなく、受けるたびに引き出しが増えていく感覚があった。
自分はたまたま仕事で財務諸表を触ったり、簿記持ってたりしたので「財務系の基礎講義とか要るか?」などと思っていたものの、知識そのものというよりも、知識の使い方や示唆出しの視点を学べる感じで、これは人に教えてもらえなければなかなか感覚が身につかないところだったと思う。

他方、課外活動としてクラスの会みたいなやつがオンラインで1回/月ぐらいあった(当時はまだまだコロナの影響があった)ので、この頃はまだそういった課外活動にもフルコミットしていた。
優先度は高くないが、やってみてどうなるのか試してみない理由はない。当時はそんな感じで、いちおう主だった活動には顔を出していたつもり。

「踊る阿呆」に踊らされる奴の気持ちやいかに

なんか暗雲立ち込める流れになってきたが、実際、入学後に見聞きした全てのことに諸手を挙げて「然り!」という感じではなく、疑問を覚えることもちょくちょくあった。
この時期でそれが一番強かったのが、入学時に学校側からあった

「踊る阿呆」になってください

という言葉である。
私は当時この言葉にものすごく抵抗感、違和感があったし、今でもこれは明確に否定している。

言っている意図はわかる。
とりあえず自分を解き放って1歩目を踏み出してみよ、というエールだと理解はできる。
入学したての学生に向けてのエールとしては、至極真っ当だ。

だが一方で、この組織はMBAだ。
学生たちは将来、多くの人を巻き込みリードしていく立場になる人々である。

その人たちが、いくら学生生活内でも「踊る阿呆」になるのはちょっとないんじゃないの、というのが自分の率直な感想だった。

仕事で人間関係系の相談を受けるときによく話をすることだが、人間は1人ではないが、自分と相手の2人だけでもないのだ。
自分と相手のコミュニケーション時は意識の外かもしれないが、その様子を見ている第三者が必ずいて、その人たちのほうが案外目の前の相手よりもパワーを持っていたり、しっかり自分のことを見ていたりする。(これがいわゆる「評判」として、長期的なその人の価値だかネットワークだかになると思っている)
パワハラ上司からボコされているメンバーを、自分は隣の机で仕事しながら見聞きしているシーンを思い浮かべていただければ、なんとなく言いたいことは伝わるだろうか。

さて、リーダーが阿呆になって踊り始めたらメンバーはどんな気持ちなのか。
その視点を常に考えないといけないからこそリーダーは大変なんだろうし、阿呆の後始末をするのはメンバーになるので、リーダーが踊るのはいいが、少なくとも計画的には踊ってほしいと思うのだ。
そうじゃないと一緒に踊らされるメンバーがやり切れない

ここまでケチョンケチョンに書いてしまったが、別に「この学校サイテーだな!」と言いたいわけではないのはご理解いただきたい。
そもそもMBAは答えではなく、考える機会を得る場だと思う。その観点から言えば満点だ。
フツーに生活してて「なーにが『踊る阿呆』だ、リーダーはそういうもんじゃねぇぜ!」などと考える機会なんて無いわけで。そういった考える機会には事欠かないな、というのはこの時期から感じていた。

ただ、この組織はなんというか、どこか浮世離れしたような高揚感があり、それがゼロイチやイノベーションをやるフェーズでは必要で、だからこそ他のところには無い魅力やパワーなのだということと思うけれども、やっぱり、ちょっと「危うい」感じがある、というのも正直な感想だった。

これは今現在でも思っている。ブレーキは自分で持たないと危ういな、と。色々考えた結果、この感覚が得られたのはとても良かったと思う。学校側の意図とは違うんだろうけど、ここは多様性の一つとしてご容赦ください。

学内に多様性はあったのかな

ちなみに、こういった考えは学内でわりとフルオープンで話をしていた。ごまかして「阿呆になりましょう!」と言っても何も生まれないし。
そういった時、周りの学生の反応は大きく3パターン(カッコ内は体感割合)あった。

  1. あり得ないものを見る目、拒否反応を示す(20%)

  2. 「面白い」「〇〇さんらしい」など、違い自体を面白がる(50%)

  3. 「確かにそうだ、だがこういう視点もある」と議論が広がる(30%)

多様性の受容度で言えば1→3につれて高いのかなと思うが、2がメジャーで、3も想像していたより多かったのは単純に面白かった。
一方で1が全くダメかというとそうでもなく、信念があって「いやお前それはあり得ないぜ」という方もいるので、やはり多様性という概念は難しいなぁと改めて思ったりもした。
ちなみに2は無難なように見えてなにも起きないのでちょっと悲しかったりする。受け入れているように見せつつ、議論を放棄しているんだろうなあと。「〇〇さんらしい」って要は「お前はお前」って言ってるだけじゃん、って話で。

他者に「お前はお前で好きにしろ」って線引きするのは、優しいように見えて結局は拒否反応であって、つまり2のような状況はInclusionではない気がしている。
他者を自分なりに咀嚼してなにかを感じて互いに引き出しを増やすことが、Inclusion and Diversityの本質ではなかろうか。

殺す人間の・・・・・・世界は広がらない・・・
必ず閉じていく・・・!

出典:銀と金(福本伸行)

1泊2日カンファレンス

そんな感じでほどほどの距離を保ちつつも、7月には任意参加の学校行事として、1泊2日のカンファレンスがあった。
「これに行けば人生が変わる!」とまで豪語されたときには「いやそうはならんやろ」と思ったものの、せっかくの機会だし行ってみるのもいいか、くらいのノリで参加してきた。

色々面白い話はあったが、「コンパッション(思いやり)」に関するセッションが一番印象的だった。
はじめは正直「思いやりで全部解決なんて、そんなお花畑な世界成立するわけないでしょ~」という感じで、

コンパッションで相手のニーズに寄り添うのはいいが、人の欲は限りがないから、寄りそうほど相手のニーズが増大し、結果「自己犠牲」になると思うが、どう考えるか?

と、わりと面倒な質問を投げ込んだんですが、

・まず自分を思いやること(セルフコンパッション)からでいい
・自分のニーズを満たしていないのに他者に広げるのが「自己犠牲」
・「自己犠牲」は周りに罪悪感をもたらし、周りのパフォーマンスも落とす

と返ってきて、なるほど確かにと腹落ちしたのを今でも覚えている。
まず自分を大事にしてもいいんだ、という感覚はとても新鮮だったし、自身が満たされるのと他人が幸せになるのは別にトレードオフじゃないよね、と気付かされた話だった。

参加してみた感じ、別に人生は変わらなかったが、視点というか気の持ちようとしては得るモノがあったなあという感触でした。

今回はこの辺で

ホントは半年分(9月まで)で記事一つとして書く予定だったんですが、なんか気づいたら4,900字も書いてしまったので、今回はこの辺で切り上げようと思います。
さすがに長い。

改めて振り返ると、この頃は大なり小なり刺激を受ける中で、自分の信念や固定観念が浮き彫りになった時期だったかもしれないですね。
それで変わったこと・変えたこともあるし、やはり「これはこうだよね」って変えなかったこともあるけど、それを自覚できたことが一番大きかったというか。

恐らく「そうですね!」と迎合するだけでも「そうじゃねぇでしょ」と反発するだけでも、こういう感じにはならない気がする。
とりあえず自説をぶつけてみて、違ったりより良いものが出てきたりしたら「たしかに」と言ってさっさと路線変更する、この繰り返しが肝要なのかな。
スタートアップの戦略とだいたい一緒じゃん(まずやってpivot)

次回のパート(2022年夏~冬)も360度診断、大阪進出、ビジコンなどなどネタが尽きそうにないので、次週やるかは分からないけど、近いうちに書こうと思います。

では!


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