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友人とカラオケ

眠たい。今日は冬に除雪作業員をやっていた友人とカラオケ(もう定番の流れになってきている)に行ってきた。

除雪作業員のお話↓

友人はカラオケで演歌みたいな歌い方をする。どんなに有名なJ-POPのアーティストの歌でも演歌みたいなビブラートの使い方をする。

その友人がアニメについて力説していた。どうやらアニメはストーリーも大事だし、作画力も大事だが、本当に大事なのは"リアリティ"なのだと。友人は「作画力があればもちろん売れる。だがそれ以上にこれが欠けてはならないというものがある。それは何かね?」というような口調で語りかけてきた。なんだかめんどくさいなと思いながらも、ストーリー?と話したら、「リアリティだ‼︎」と一喝したのだ。

どうやらグロテスクな描写をしているアニメでも、その内臓がいかに綺麗に描写されているかによってその作品の是非は決まるらしい。内臓なんて私は痛いの嫌いだからあんまり見たくないけれど、どうやらその友人は本気でそう考えているらしい。

この前スマホゲームの類のもので女性キャラがたくさん出てくるゲームの、スレが立てられてて、それが何やらその女の子のキャラの胎盤に入りたい、還りたい、というようなスレだったらしい。そしてそれをその友人が「信じられない」と言っていたので、私はそれを思い出して、「え、内臓はいいのに胎盤はダメなの?同じ内臓なのに?」と質問した。そしたら友人はあたふたしてこう答えた。「胎盤は無理だ。彼らの思考は理解できない。俺が言ってる内臓は芸術の話だ。変態の話ではない。性欲の話ではない。」どうやら内臓は芸術だが胎盤は性欲なので、彼にとってはカテゴリーが違うらしいのだ。

カラオケで前から推しの八木海莉さんの「お茶でも飲んで」を歌って、なんと94点が出た!機種はジョイサウンドだったが、94点は初めてだった。しかも推しの八木海莉さんの歌で高得点を取れたから、それも嬉しかった。

太鼓の達人を少しやったのだけど、そこにいたドンダーの少年に少しからかわれた。友人とやってる太鼓をバカにした感じで振り付け込みで踊ってきたのだ。よく分からないが、私はあれを知っている。自分を強者だと思っているとりわけ思春期の勢いついた男子の、弱者いじりだ。あれを私は知っている。もう太鼓はやりたくなくなったな。

というのも私は太鼓をやりたくないけど2年間続けてきた。別の友人が10段を取ってて、私はその友人がいたから、友人もやっていた、という理由だけで太鼓を続けた。その戦いは熾烈だった。太鼓のやりすぎで昨年の冬は死にそうになった。やりたくないのに2年続けた。といっても、私がやるのは1日に1時間くらい。ゲームセンターに入り浸って、家でもやって、計5・6時間以上を費やすようなゲーマーたちとは比べものにならない。でも自分もそこまではうまくないけど、4段に合格することができた。相変わらずそんなに楽しくはないけれど。

それと一緒にラップも2年間続けている。それも別の友人とラップをして遊んでいたのがきっかけで、もう友人はラップはしてないけれど、ただ友人とやっていたからという理由で2年間続けた。太鼓とラップを特段楽しんでいるわけでもないが、2年間続けた。今も続けている。ラップは割りかし韻がもう固定化されてきて、ここからは辞書を引かないといけないかもしれないな、と思っている。「態度」デ「カいぞ」、うち込む「大砲」、「才能」「解放」湧かす「会場」、これがお決まりの肩慣らしフレーズである。「大脳」なんかも入れてもいいと思う。「大脳新皮質」で踏めないか、と思うのだけど、「会場新入り」とか「廃橋神秘に」とか無理矢理な感じなやつしか思いつかない。これも人とやったら、色々発見があるのだろうか。

魚べいにいって寿司を食べてきた。内臓の友人は8皿くらいしか食べてなかったけど、私は16皿食べた。とにかく回転寿司屋さんの寿司の脂の乗りがよくて、箸が止まらなかった。私は魚べいが一番好きである。しかし回転寿司も一カ月に一回くらいでいいかもしれない。一週間でまた行きたくなるだろうけど、一カ月に一回くらいの頻度が個人的に自分の人生を潤す寿司の頻度の絶対値な気がする。そう考えるとあまり出費はしないんだね。

カラオケに行くことと、太鼓の達人、寿司を食べる、ことができたらもう満足だから、割りかし自分の贅沢ってコスパいい?それに好きなもの何かと聞かれてパッと思いつくのはスーパーに売ってるふきの惣菜だから、割りかし自分の贅沢は低コストで楽しめるのかもしれない。ふきの惣菜、あと、しその天ぷらなんかがあれば最高だ。もし自分が稼げるようになったら、ふきの惣菜としその天ぷらが食べ放題なんだと思うと、心が浮き立つものを感じる。

まあそんなこんなで色々と考えてみると、自分にとって必要な費用って案外少ないのではないか。カラオケは3時間くらいで1700円くらいだったし、魚べいは2000円いけばよく食べたほう。太鼓なんて500円あれば15曲できるから、自分にとって必要なお金は案外これくらいの娯楽費で、あああと、漫画をとにかく買いたい!この前はヒロアカと呪術廻戦を一巻ずつ買ったけど、特に面白かったのは呪術廻戦のぜんいんまき(漢字が分からない)の復活するところ。ネタバレ注意しなきゃいけないと思うから控えるけど、節々に出る作者の読者を犯すセリフ集が気持ちいい。というものを、漫画を買えたら永遠に味わえるわけだから、自分に必要なのはカラオケの費用と月に一回の寿司屋の費用と漫画の費用。これくらいなら案外、自分でも頑張れば稼ぐことができるんじゃないか?

とにかく生活ができれば自分はそれでよくて、生活さえできればあとはずっとニートしてたいと思う。世間で言われるニートの問題は、その根本は何かというと、他者愛的でないこと、精神的な深化をしてないこと、だと思うから(個人的に)、現にうつを乗り越えて人としての心の成熟を形としてしれた自分にとってはニートはうってつけの創作生活なんじゃないかなぁ、と思った。自分の生活費さえあれば、あとはずっとニートしてられる。ニートするために金を稼ぐ、この思考って案外大事なんじゃないか。諸々のうつを経験してみてそう思う。

youtubeにショートが流れてきて、成田悠輔さんが幼い頃睡眠障害を抱えてて、それでまともに学校生活を送れなくて、仕方なく自習してたら気がついたら東大経済学部の主席取ってた、って動画が流れてきたんだけど、感動した。何が感動したって、自習によって主席になってたこと。これがなんだか、大事なことのような気がした。クリエイターの大西拓磨さんがとある動画で「人の創造性を発揮させてほしいのであれば、ボーッとしてる人に話しかけないでくださいと言っている」と話していて、このボーッとしてるのが成田悠輔さんの自習に相当するものだったのかなぁ、なんて思ったりした。自分はそんな勉強はできないけれど、カラオケで『お茶でも飲んで』を極めたい。次95点行きたい。

勉強はできないと言ったけど、割りかし大学の哲学とか人文系については理解できてる方だとは思うんだ。誰とも話したことがないから分からないけど。哲学で感動したのが数学では原論という絶対的な自明な真理があって、そこから導き出される仮定はそれも真になる、逆に言うと原論が偽だった場合は推論も偽になってしまう、というようなことを言っていたことだ。(数学詳しくないから、覚えてる話をなぞっただけだけど。)で、何が感動したって、これを人生に当てはめたら、人は人生というものに対しての理解を人それぞれしていると思うんだけど、その人生に対する理解、人生そのものの捉え方が真だとすれば、そこから生まれる自分の生活も真になる、つまりは非常に精神的に安定したものになると思った。でも逆を言うなら、人生というものを誤って捉えていたとするならば、そこから生み出される生活は必然的に裏切りの連続の人生となってしまう。原論が真だからこそ、そこから派生する命題も真となる。これは人生全般に共通する普遍解のように、聞こえた、のだ。お釈迦様が「人生苦なり」と言われているけれど、これを誤って「人生楽なり」と捉えていたら、結局苦しむことになる気がする。経営者の小野壮彦さんが、「人を見切って信じることが大切」とある動画で言っていたけど、それはつまり人の信じれない部分は信じないで、そしてその人の信じれる部分は信じる、ということだと思う。そしてそれは必然的に人生は楽である、と思っていた無垢の状態から一つ脱したものの見方だと思うから、やはりお釈迦様の「人生苦なり』がここでは真と言える気がする。仏教の出発点がまず「人生苦なり」だったことは、非常に示唆に富んでいると思う。

精神科医の泉谷閑示先生が人の成熟の過程をこのように説明している。人は何もかもを信じて疑わない純粋無垢として生まれる、しかし大きくなるにつれて世の中の理不尽と明らかな機能不全、不正、邪なもの、それらに触れて彼らはペシミズム(厭世主義)に陥る。しかしそこを抜け出そうと欲するものはニヒリズムへと移行する。ニヒリズムは虚無主義と言われるが、それはペシミズムとは一線を画するものである。それは理不尽を告発しよう、という力が備わっていることである。その力がニヒリズムにはある。そしてニヒリズムを通って最後に人間はこの世の倒錯を明らかに見つめ抜いたまま、一つのとらわれの無い境地へと出る。アウフヘーベン的に止揚されたこの精神は、人間の厭世と理不尽の告発の虚無、それらを通り抜けてきたものであって、しまいにはこれは幼児さながらであるという。幼児は純粋無垢と言えるけれど、その純粋無垢は初めて生まれてきた時の単に人の是非を知らずにすべてを信奉している価値観とは違い、「人が信じれないこと』も通り抜けてきている幼児であり、これはスーパー幼児、スーパー小児である、と言われていた。これが人間の精神の成熟過程で、これを精神の深化と言うらしい。この精神の深化をした人間こそが、「人を見切って信じる」ことが可能なのであると思う。

地下鉄に乗るのだけれど、地下鉄ってとてもうるさいことに気がついた。地下鉄の騒音って、かなり爆音だから、音楽とかも私の安いイヤホンでは全然聞こえなくなる。地下鉄の壁の爆音は壁の材質と電車の速度から起きているのだろうか。電車の壁をゴムとかにしたら変わるのかな。ゴムにしても壁があったらダメなのか。とにかく私たちは慣れてしまっているけど、地下鉄の風を切る爆音はすごいものだと思う。

そういや地下鉄で思い出したけど、地下鉄にトゥレット症候群の人が乗ってきて隣に座ったんだけど、辛そうだった。意図に反して言葉が出てきてしまうから、もう本人は慣れているのかもしれないけど、やっぱり気持ちのいいものではなさそう。私もチックをやっていたことがあるのだけれど、トゥレットは何か心のある一点で"阻害"が起きているから発生している気がする。多分、機能不全がある。多分機能不全があるから、その阻害を解消すれば、完治とまではいかなくても治るのではないか。心の奥底の部分での何かの阻害、それが実は何であるのか、私には分からない。でもトゥレットが治るって、これはノーベル級のことだと思う。本人たちにとって病気が消えること、これが真の解決だと思う。病である以上、そこに原因はあると思う。

魔法科高校の劣等生のダブルセブン編をまだ見れてなくて、見ないと。魔法科は10周年を迎えたみたいだけど、一つのライトノベル作品が10年も続くってすごいことだと思う。司波達也役の中村悠一さんの声もだいぶ渋くなった。高校一年生ではイケボだったが、高校二年生ではもはや成熟を通り越してダンディである。一話と二話くらいしか見れてなくて、花澤香菜さんの七草真由美の照れ、妹たち?を戒める態度、最初からニーズというものを理解なされてる...と思わざるをえない展開だった。司波は相変わらず端正な顔で中性的な態度である。軍に仕える国家級の魔法師ともなれば、もはや自信というかなんというか、「実力」が自明なものとしてあるので、みんなに淡白になるんだろう。司波達也はアニメだけでの話ではない。私たち3次元の世界に於いても共通する人生哲学だ。無論、現実で司波達也の実力を補完できるような人間がいれば、おそらく司波達也とは違った人物像になる、ともう前々から言っていることではあるけれど。二次元世界の司波達也の本質を三次元世界に於いて修めたとするならば、その人物は必然的に二次元世界の司波達也とは一線を画するものになり、なぜなら実力というものは笑顔というものに三次元世界では結びついてしまうから、"談笑"というものに結びついてしまうから。だから司波達也を真似しているうちは(過去の自分も含めて)、まだ司波達也にはなれていないのではないか、と。

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