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怒り、全体的に。

朝父に人格否定チックな小言を言われ、朝はいつも自己否定感が強まっていることも作用して、かなりショックを食らってしまった。昨年の2月11日あたりだったかに言われた小言の時と同じくらいのショックを食らったのは久々だった。父は家庭でやることといったら贖罪しかないのではないか、と前々から思っているけれど、どうして贖罪で勢いついているのか、私には分からない。罪を犯して有罪判決を受けて、その受刑中の容疑者が俺は受刑してやっているのだから俺の言うことを聞け、というのは甚だおかしな話であろう。

成果というものとよく向き合う。私は成果と言う言葉は嫌いだ。だけどこれほど私の人生に根付いている言葉もない。父性が強い人間、とりわけそれが機能不全の人間に対しては、同じく父性で返却してあげることがもっとも効果的な脱毒親対策となる。分かりやすく言えば才能を求める親に対してはそれ以上の才能を提示してやると、その親は才能を求めていたくせに狼狽する。それはなぜかというとこの親の基準がいつも自己の能力基準だからだ。つまり、子どもが自身を上回る才能を提示してきた時、普通の親はその子の個性に素晴らしく喜ぶところを、この親は「何、俺の能力と比べてこんなにできるのか!」という「俺」が入るのである。この「俺」が入らない機能不全者はいない。父性には父性で返す、毒親に対してできることはそれだけである。もう一つは縁を切るということ。

そもそも私の母、つまり妻と「人生の話」をできるのかと思う。私はよく彼女とこれからの人生についてや人生の意義について(それはそこまで小難しい雰囲気にしなくとも)話す。よくそのようなことを話す。目的地の確認は、パートナー関係において大事なことだと思うし、パートナーである以上意思疎通はしたいのである。職場の悩みや人生の悩みを聞く。理由は簡単、人生とは大変なものであるからである。

でも父は妻と人生の話をできるのだろうか。我々人間存在の意義を深く語れるのだろうか。はたまた職場で、その部下の持つ個性を、色彩のもった個性を発見することができるのだろうか。実は何も教えなければ、子どもたちは実に伸び伸びと自ら挑戦発見していくということを、知っているのだろうか。それをしていないのだとしたら、別にその会社の役職はただ今そいつだから周りは順応しているだけで、その体制が変化し人事異動がなされたらきれいさっぱり忘れ去られるものではないだろうかと疑問に思う。頼れるのは、やはり自分の家族だけ。

核家族でも、世代間の繋がりなくしては生きられないのである。核家族でも、地域共生なくしては生きられないのである。絶対に「俺だけは俺の家族を養うから」ではこの世の中を生きていけないのである。どだい、それが死ねないということである。

私が聞くところによると、人は死ぬ時、自分がどこに行くか分からない恐れと、不安が交互に自分の心を襲うのだという。お釈迦様がそう説かれたと聞いた。私はそれを聞いて戦慄した。たしかに、そうだ、自分は死ぬときどこに行くかも分からぬ、自分の「この自分」でさえも消えてなくなってしまうのだ。たしかに、不安と恐れしかない。こう思ったのだ。しかしどうかな、いろいろ考えるに従って、これは私のために説かれたものでもあるけれども、これはどちらかというと父と母に対して説かれてるものではなかろうかと思ってきたのである。だってなぜなら次世代のことをあまり考えない"成人期"といえる状態を歩んでいるこの親において、死後の問題は切羽詰まった人生上の絶対肯定における危機だと思ったからである。故に私は毒親と言うものを向き合うとき、たった一つ許されている毒親対処法なるものがあるのだとしたら、「そうかこいつは死ねないのか」と思うことこれただ一つではないかと前々から思い立ち、そうすることによって実際自分の慰めを得てきたのである。「そうか、こいつは色々言っているけども、結局のところ死ねないんだな。」こう思えば突然この子が可愛く見えて、立場が逆転してしまうのである。もしこれを思いつかなかったら、今頃私はさっさと死んでいたのではないかとすら思う。

街にいる人は綺麗である。みな可愛い服を着て、アクセサリーつけて、髪が若干明るく色が抜けており、いい匂いがする。
しかしながら私にはそんなものは許されていないのである。そんなものが許されていたら、なぜ私は毒親などという言葉を発しているのだい?まずはこの機能不全に育つものは自立ができないという機能不全の本質の部分であるどん詰まり問題を解消せねばならないのである。それからであろう、お前が人として生きれるようになるのは。

友人が1人旧帝大の大学院にて過酷な研究生活を送っている。全身の発疹、食欲不全、浅い眠り、胃腸の悪化、こんなことを何年も言いながらその研究にかじりついている。この人も同様、荒れた荒野を自らの実力だけで生き抜いてきた人物だ。その友人は言うのだ、最近精神が狂い始めてきたから、そのバランスを取るために街中で変なことをすると不調がおさまる。

私も大学入学して早々ブログを300記事書いて、授業をまともに受けれず、今やとれる単位はごくわずか。だが勉強しているうちはまだ休めるのだ。

女性が好意を持ってくれることをよく感じることがある。だが明らか、私がうつ病を生き抜いたからだろう。

私は逆立ちしているのである。でも実は世の中の人たちが逆立ちしているのである。私は普通に立っている。

誰かがそれを病的だと言ったとしよう。それも当然である、私が逆立ちして見えるのだから。でも私からしてみればあなた方が三点倒立しているのである。

ひどくノイローゼになるとき、私の相対的な評価基準が崩れている。簡単に言えば相対が崩れている。思うのだ、青春は相対だ。

相対がなくなる、ここまで自分を追い込む、これだけが努力と言えるものなのではないか。だって努力が実ったなんて話を、私は聞いたことがないからね。最も、努力が実った人間は、自ら努力が実ったなんて言わなくてよくなるから、だとは思われるが。

もし現象をすべて理解できるとしたら、それは相対に恵まれるだろう。たとえばある人が落とし物をしたとする。そこを通りがかった人がそれを拾った。落とし物をした人はお礼を言ってその物を受け取った。ここで起きたことを、正しく理解できる人、この者が優位に立つだろう。なぜなら因果を分かる人はその次の因果を生み出せるのだから。因果を分からないで次の因果を狙った通り起こせる人間を私は知らない。ということは因果を知る人間、これが相対か。

詳しく言おうか、落とし物して他者にその物を拾ってもらってお礼を言った、この流れに起きたその人物の心理的な流れと、動きと、表情の、他者とのやり取りと、感謝と、謝罪と、申し訳なさと、恥じらいと、それを見た私と、それを見た私の心の動きと、これを理解するものが相対的に幸福であろうと!

現象を精緻に理解すること、ここができてないことによって諸々の苦悩が起きているように思えてならないのだ、私には。私の幼稚な脳ではこれくらいしか考えることができないから、もうとやかく言わないでくれ。

青春は相対、相対は精緻。

何かおかしいこと言ったか??

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