意識、偶然に…(エッセイ)
壇蜜さん作
「壇蜜日記」「壇蜜日記 2」を読み終え、今は「壇蜜日記 3」を読んでいる。
シリーズとしては「4」まで出版されており、2013年から壇蜜さんが日々を綴った文書が、この本には書かれている。
短くも、壇蜜さんの言われたことに対する受け止め方、考え方、そして、コンビニで見つけると必ず購入する猫の漫画雑誌や熱帯魚と猫との生活が、壇蜜さんの書く文章からさらけ出されてくる。
そこには、芸能人という人の言葉ではなく、1人の人間としての哀愁や悲しみ、そして悔しさが書かれている日もある。
そして、そんな日々の日記にフッと1行、2行記される、男性とのお付き合い。
壇蜜さんの綴られている日記を読み進めていくと、たまに力の強い言葉が目に入ってくる時がある。
そして、そんな日記の文書を読んでは、心がツーンとする私。
壇蜜さんの日記の中で一番印象が強いのは、ご自分を卑下する様な描写がある事。そして、壇蜜さんへと伝わってしまう…周りからの棘の言葉。
……こういう事が、文として、日記として平然と紙に置かれていて、私は文字を追っている途中に、そういう言葉に出会うと一瞬…止まる。
その平然さが『痛み』の強さを増して私の目へと入ってくるのだ。
そんな壇蜜さんの本を読んでいた時、私はお昼に台湾料理屋さんへ入った。
そして席へ付くと、目の前の壁に貼られていたのは、壇蜜さんの広告ポスター。
お酒会社と壇蜜さんのキャンペーンだったのかどうかまでは見てこなかったものの、そのポスターには『壇蜜さんがあなたの名前を呼んでくれる』という事が書かれていて、下には電話番号があった気がする。
壇蜜さんの本を読んでいた私は、心の中で『あっ。壇蜜さんだ』と、思った。
もう何年も前のポスターだった為、キャンペーンの期間は終わっていたが、こんな偶然に、少しビックリ。
本を読んでいる時に、壇蜜さんのポスターを目にする。
それも目の前に。
こんな事、中々ないのではないだろうか。
本を読んでいたからなのか、偶然なのか。
偶然ではなく必然なのか。
私は、壇蜜さんの本を読んで、もしかしたら無意識に壇蜜さんを意識していたのかもしれない。
だから、目に入ったのかもしれないし、目にとめたのかもしれない。
これは、もはや……
一種の『恋』なのではないのだろうか。
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