エヴァンゲリオン総括④〜実は単純なマチズモ的快楽原則と衒学性が融合したストーリー〜
これまで、エヴァンゲリオンシリーズの背景、監督自身について主に語ってきた。今回からさらに内容に踏み込んで行こうと思う。
エヴァンゲリオンシリーズの特徴②
エヴァンゲリオンシリーズのもう一つの特徴として顕著なのは、結局は「シンジ無双」であるということ。
シンジ役の声優緒方恵美もまた「エヴァって結局は単純なヒーロー物なんです」とインタビューで答えていたのは面白い。
世間(アニメ業界)の「難解で複雑なストーリー」とか「テーマが深く心理描写がリアル」といった評価とは別の率直な、女性らしい簡潔で的を得た意見だと思う。
正直、彼女のシンジに感情移入しまくった数々のアフレコエピソードを聴いていると、この俯瞰した意見は意外だったのだけど、これまた女性らしい「それとこれとは別」という話だろうか。
実際、エヴァンゲリオンとは、新旧通じて悩める内気な可愛らしい少年シンジ(陰キャヲタクの美化した姿)が結局は世界を救うという、実はとてつもなく単純にして大胆なストーリーラインになっていることにお気づきだろうか?
難解(に見せている)なストーリーだったり複雑な人間ドラマに惑わされるけど、結局はシンジがちゃんと活躍するという単純な話になっていて、実はかなり王道な物語なのは面白い。
シンジの父ゲンドウですら作中でモテており、この親子がやたらモテて活躍(暗躍)する都合のいい話でもある。
これはやはり単純に数々の出演女性声優に告白してはフラれていたと噂される庵野秀明監督の願望が表れているのかもしれない。
また、旧シリーズにしろ新シリーズにしろ、この物語には主人公のライバルが不在であり、同じエヴァパイロットのレイやアスカすらどこまで行っても噛ませ犬でしかなく、最終的にはシンジが美味しい所を持っていってしまう。
(このライバル(主人公を脅かす存在)の不在というのは実は村上春樹作品と共通しており、庵野、村上の2人がほぼ同時期に活躍しているのは面白く、これとは別に村上春樹についてその内語ろうと思っている。)
旧シリーズでもアスカは「結局はシンジさえいればいいのよ!」と嘆いていたが、実際その通りの展開だった。
旧劇での量産型との結局は不毛だった大立ち回りとその後のお約束の敗北は印象的だった。
新シリーズにおいても、Q冒頭の初号機強奪作戦で最後はシンジに助けられるし、なんなら終盤のシンジとの一騎打ちでも負かされる。
シンエヴァでも13号機を止めるためにアスカが捨て身の攻撃をしかけるもやはり失敗し、最終的にやはりシンジによって「救済」されてしまう。
新旧通したアスカの噛ませ犬的な立ち位置はフィクションのキャラクターでありながら気の毒にすら思う。
ここでもやはりエヴァンゲリオン総括③にも書いた旧シリーズとの「変わらなさ(新しくなさ)」がある。
先ほども書いたけど、エヴァとは本当に最終的にシンジが美味しい所を持っていく話になっている。
シンエヴァもやはりシンジが全員を「救済」していくような話だった。
(旧シリーズの場合劇場版ラストだけはバッドエンドと言えるかもしれないけど、それまでは完全にそうなっている)
アスカやレイがどれだけ頑張り、あるいは傷ついても最終的にシンジの活躍によって世界は救済される。
これはかなりマチズモ(男性優位)的世界観であり、男を主体として描き過ぎていると批判されても仕方ないが、実際そうした批判が起こっていない気がするのはアニメーションだからだろうか。
ただ、こうしたシンジの活躍の裏には母親である碇ユイの思惑通りの部分もあるのだけれど。
エヴァンゲリオンを語るにあたって根底にあるこの絶大なナルシシシズムに関してはあまり言及されてないように思われるけど、僕としてはこの要素はかなり重要であると思う。
勿論、フィクションや物語とはあの手この手と品を変え、あるいは変えたように見せ手管を尽くされる「都合のいい夢」だ。
だからこそ人はフィクションに魅了されもする。
我々の現実の上手くいかなさ、やるせなさに対してフィクションの主人公の活躍を見ることによって「埋め合わせ」をしてもらうという、単純な快楽原則は勿論エヴァンゲリオンにも適応される。
本作はある種そうした快楽原則が複雑なストーリーや難解さから「わかりにくく」なっており、しかしこうした快楽原則がある以上、実はヲタクが毛嫌いするヤカラ(DQN)と同じような男性優位の快楽性をヲタクやファンもまた求めているのだという戒めは持つべきだろう。
エヴァンゲリオンとは本当に難解か?
さて、やたらエヴァンゲリオンを語る際に言われる難解なストーリーだが、果たして難解だろうか?
庵野監督自身「エヴァは衒学的(専門用語を使って難解に見せる)」と正直に語っているように、実は難解ではないと僕は思う。
テクニカルタームを語り具体的なデータを大量に出し、さも専門性があるかのように見せて肝心の内容自体は大したことを言ってない、そんな人や本をあなたも心当たりがあるんじゃないだろうか。
むしろ難解なストーリーとかリアルな心理描写といった要素は、実は単純なヒーロー物であるという事実をある種隠すためのヲタクの方便であるのではないかとすら思ってしまう。
というのも、エヴァンゲリオン総括①でも書いたけど、人類補完計画の詳細はアニメが始まるまで考えられていなかったし、
肝心の内容にしても「群体としての人類を単体としての生物に人工進化させる」という、
進化した後1人ぼっちでどうするの?
生きてて楽しいの?
といった疑問が湧き上がるものでしかなかった。
(本編ではそのスケールに圧倒されて考える暇がない)
結局、リリスやアダム、ロンギヌスの槍の役割とか何がどうなってそうなるのかという具体的な説明は旧シリーズにおいても一切されなかったし
新シリーズにおいてもL結界密度やネブカドネザルの鍵、アダムスの器や地獄の門、ゴルゴダオブジェクトといった用語はどんどん出てきたけど
それらが一体何を意味してどういう役割や機能があるのかは一切やはり語られなかった。
さらに言うなら解くための手がかりすら用意されていない。
ここもまた旧シリーズと同じく説明されない「変わらなさ」がある。
重度のマニアは聖書を読み込みすらしているようだけど、庵野監督自身「聖書にそんなに詳しくない」と告白している通り、考察系によくある「意味のないことに意味を見いだす」という答えのない自問自答にどんどんのめり込むような行為をしている。
マニアはこういった難解そうなワードに飛びついて考察するのだけど、エヴァンゲリオンというのが単純な快楽原則に基づいた単純なヒーロー物であるということには言及しない。
そういう意味ではよく出来た物語だ。庵野監督はヲタクに批判的だがヲタクがハマれる要素はきっちり盛り込んでおり、さらに監督自身がヲタクに批判的であることで作品にある種の一般性、客観性が獲得され、皮肉にも安心してヲタクが作品に没頭できるようになっている。
しかし考察系のマニアに僕が思うのは、そもそも人類補完計画自体がトンデモな救済プランなのだ。
我々の生きる現実は結局は他者と生きるしかないし、金も勿論必要だ。生きてるだけで金は必要だし税金も容赦なく取られる。
職場の同僚、先輩や友人、家族、恋人との関係性に悩んだり自身の能力に限界を感じたりとみんなあるだろう。
それに対しての答えなどこの作品にはないと思う。
エヴァンゲリオンの謎を解明したところで現実には適応できないだろうし、中身も大してないだろうし、そもそも庵野監督自身大した思想や考えもないだろうと。
さらに言うなら解くことを拒否すらしてる作品なのだから。
クリエイターとしての庵野監督は勿論偉大だけど、インタビューを読む限り世間や政治や社会構造自体には興味がなさそうだ。そしてそうした監督の作品には往々にしてそこまで深掘りするテーマや内容はない。
次回はいよいよ最後になるだろう、旧シリーズ踏まえた最終作シンエヴァの具体的な内容について批判含めて語ろうと思う。
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