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三島由紀夫『金閣寺』読書感想
言わずと知れた名作。
何度か読み返したのですが、正直未だによく分かっていません。
みなさん言われていますが、難解ですよね。私は三島自体が初めてだったこともあり、何度も挫折しそうになりました。
それでも自分なりに色々考えながら読んだので、感想を書いてみようと思います。
作品紹介
「美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ」
吃音と醜い外貌に悩む学僧・溝口にとって、金閣は世界を超脱した美そのものだった。ならばなぜ、彼は憧れを焼いたのか? 現実の金閣放火事件に材を取り、31歳の三島が自らの内面全てを託した不朽の名作。
血と炎のイメージで描く〈現象の否定とイデアの肯定〉──三島文学を貫く最大の原理がここにある。
こんな人におすすめ
○美しい文章に触れたい人
○生きづらさを感じている人
○歴史に興味がある人
感想(※以下ネタバレを含みます)
吃り
吃音について「内界の濃密な黐から身を引き離そうとじたばたしている小鳥」と表現していましたよね。
この部分に限った話ではありませんが、比喩表現がことごとく緻密で圧倒されました。
溝口が抱えている焦燥や葛藤が、いわば画像のようにするりと入ってきて、イメージが湧きやすかったです。
流石としか言いようがありませんね。
感情が間に合わない
溝口は「私の感情にも、吃音があったのだ」と分析しています。
確かに、そういった場面は多く見受けられました。有為子の事件のときもそうですし、金閣の美も、父親の死の悲しみも、後からやってきてましたね。
この感情は、少し分かる気がします。
すごく悲しいことだったり、びっくりするような事態に直面したときって、感情が停止しませんか?
そういうことに限って、じわじわと実感が湧いてきてずっと尾を引くんですよね。
美と私とを結ぶ媒立ち
「金閣が灰になる」
この考えが、美と溝口とを結ぶ媒立ちとなりました。美そのものである金閣寺に空襲の危機があると思うことで、金閣を引き下げたんですよね。
しかし、それは実現することなく戦争は終わります。空襲に焼かれなかった金閣は、再び溝口と世界を隔てることになりました。
溝口は「これで私と金閣が同じ世界に住んでいるという夢想は崩れた」「この世のつづくかぎり渝らぬ事態……」と絶望します。
「渝らぬ事態」に「絶望」するというのはなんとなく分かる気がしました。昔読んだ本にも同じようなことが書かれていて、すごく印象に残っているんですよね。
「絶望ってどういうときにやってくるか知ってるかい。この世界で動かしがたい事実のあることを知るときだよ」
しかし、ここでいう「渝らぬ事態」「動かしがたい事実」に当たる「美は美、醜は醜」という考えにはあまり納得できませんでした。
そんなの、個人の認識の問題ですよね。溝口は自分を「醜」として「美」である金閣との世界を隔てていましたが、なんだか勝手に不貞腐れているような印象を受けました。
……と思っていたら後半で柏木が、「個々の認識はない。認識は人間一般の存在の容態」と言っていましたね……私の読書力が低いだけなのか……難しいです。
人生を阻む金閣
溝口は、2度ほど金閣に人生を阻まれていましたね。
1度目は下宿の娘、2度目は生花の女師匠。
初読時は意味不明でした。「乳房が金閣に変貌した」なんて言い出した時には「何言ってるんだろう?」という感じで。
しかし読み返していると、ぱっと目についた一文があったんですよね。
わずかのあいだ私の疎外を取消し、金閣自らがそういう瞬間に化身して、私の人生への渇望の虚しさを知らせにきたのだと思われる
何となくですが、「美を追い求めすぎると人生虚しくなる」ということなのかなあとぼんやり思いました。
まだまだ考える余地がありそうですね。
南泉斬猫
これも難しかったです。
南泉は「行為」、趙州は「認識」という柏木の解釈に則って考えてみると、
①両堂の僧が「各々の認識」で猫を所有物にしようと争っていた。
②南泉は「各々の認識」を執着であると考え、それを猫を斬るという「行為」でもって断ち切った。
③趙州は「認識」というものは、各々ではなく人間一般のものだと示した。
つまり、「各々の認識を行為で断ち切ったところで、根本的な解決にはならない」ということでしょうか。趙州が自分の靴を頭に乗せたことが、何故③のような解釈になったのかはよく分かりませんが……
こんがらがってきたので自分なりに分かりやすく置き換えてみると、
①AとBは、お金欲しさに争っていた。
②そこにCがやってきて、その執着を断ち切るためにお金を燃やしてしまう。
③それを後から聞いたDは、お金に対する執着はそれぞれのものではなく世間一般のものだと示した。
つまり、「お金を燃やしたところで、お金に対する執着は消えない」といったところですかね。美云々を抜きにして考えると、意外と単純なのかもしれません。
しかしそんな美だからこそ、溝口は苦しめられているんですよね。
金閣を焼かなければならぬ
有名なフレーズですよね。読む前から、ここだけは知っていたくらいです。
溝口はこの言葉通り金閣を焼くことになるのですが、いかんせんそれまでが長い。「まだ焼かないのか……」と思いながら読んでいました。
この頃の溝口は、美(金閣)を「怨敵」と言い表していましたよね。
確かに、あんなに愛した金閣に拒絶された挙句、人生まで阻まれれば、憎しみが生まれてもおかしくないのかもしれません。
燃える金閣
自分も死ぬつもりでいた溝口は、焼け落ちていく金閣を見ながら「生きようと思った」んですよね。
正直、「人騒がせな男だな」と思いました。(すみません)
「行為をしなくてもよいという最後の認識」に気づいていながら、必死に行為のための理由を探していたようにも見えましたね。
そんな時に浮かんできた言葉がこちら。
裏に向ひ外に向つて逢著せば便ち殺せ。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。
仏教には明るくないので調べてみると、「あらゆる執着や思い込みを手放せ」という教えらしいです。この教えが溝口を鼓舞してしまったんですね。
結局、金閣を燃やすという「行為」をもって初めて「認識」を改め「生きたい」となった訳です。
話は少しそれますが、私はこの部分を読んだ時『呪術廻戦』の夏油傑を思い出さずにはいられませんでした。
夏油も理想の世界を作るために、「呪術は非術師を守るためにある」という「認識」を改め非術師を殺していくんですよね。思い込みを手放し、「行為」に及んだ訳です。
溝口とは似ているようで真逆なんですよね。
「認識」を改めて「行為」に及んだ夏油
「行為」をもって「認識」を改めた溝口
どちらにせよ、もっと違う方法はなかったのかなあ、と思わずにはいられませんでした。
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