見出し画像

「佐伯祐三―自画像としての風景」展 in 東京ステーションギャラリー

先日、東京駅構内にある東京ステーションギャラリーで開催中の「佐伯祐三―自画像としての風景」展に行ってきた。

4月2日(日)まで開催。
その後4月15日(土)~6月25日(日)に大阪中之島美術館に巡回する。

NOTEの記事にも影響を受けたが、少し前にTV「ぶらぶら美術館」で紹介されていて、絶対行こう!と思ったのだった。
同じように思った方が多かったのか?平日の昼間というのに、当日券売り場で10分ほど並ぶことになり、中もかなり混雑していた。
これはピカソやゴッホなみ。佐伯君出世したね~。

音声ガイドの貸し出しはなく、すべてスマホ(もしくはタブレット)にダウンロードして、自分のイヤホンで聞くシステムになっている。
おうちでも聞けるので、予習や復習に最適。
というわけで、先にダウンロードして前日に聞いておいた。
これは正解。会場でも聞いたが、それは参考程度で、作品を見ることに集中できる。

1898年に大阪で生まれた佐伯祐三は、25歳で東京美術学校を卒業し、その年のうちにパリに向かいます。
作品を見せたフォーヴィスムの画家ヴラマンクから、「このアカデミック!」と怒声を浴びたことが、佐伯を覚醒させます。2年間の最初のパリ滞在中に、ユトリロやゴッホらからも影響を受け、佐伯の作品は大きな変貌を遂げていきます。
1年半の一時帰国を経て、再渡欧したのは1927年のこと。パリに戻った佐伯は、何かに憑かれたかのように猛烈な勢いで制作を続けますが、結核が悪化して精神的にも追い詰められ、1年後にパリ郊外の病院で亡くなりました。30年の短い人生でした。

―パンフより

わずか30年の人生で多くの作品を残したということは、1作品をものすごいスピードで描いていったことになる。
人生が短いとわかっていたから無駄にしまいと思ったのだろうか。
ハードな仕事ぶりが、さらに命を縮めてしまったといえるかもしれない。

今回の展覧会では、代表作が100点余り。
プロローグ、1章~3章、エピローグと5つのブロックに分かれている。

プロローグ 自画像

最初に石膏でできたマスクがあり、いきなりデスマスク!?とびっくりするが、これは、ライフマスク。
学生だった23歳のころ、友人たちとアトリエで自分の顔をかたどったものだそうだ。これを見る限りはイケメンだったようだ。

主に学生の頃に多くの自画像を描いている。

<パレットをもつ自画像>

何点か展示されているが、こちらはセザンヌの影響も感じられる。


第1章      大阪と東京

大阪の由緒ある寺院の次男として生まれた佐伯は、仲の良い兄の援助で画業に専念できる、恵まれた環境だったようだ。
最初のパリ滞在中、体の弱い祐三を心配した母の願いもあり、兄が連れ戻しに来る。
佐伯は、「日本へ留学する」という言葉を残し、無念の帰国。

それから1年半の一時帰国時代に、集中的に取り組んだ画題が「下落合風景」と「滞船」だった。

一番気に入ったのは<下落合の風景(テニス)>だが画像の貼り付けは無理そう。

◎親しい人々の肖像

<彌智子(やちこ)像>

1人娘への愛情あふれる作品だ。佐伯が亡くなる直前に6歳で亡くなってしまったと聞くと悲しいが。

◎静物

<人形>

これは絵葉書を買ってきた。
この人形はとっても高く、1か月の生活費が飛んでしまって、借金をしたとかいうエピソードが。佐伯はどうもこういう買い物をしがちなのは、やっぱりおぼっちゃまだから?


第2章      パリ

1) パリ:自己の作風を模索して

<オーヴェールの教会>
ゴッホ終焉の地で描いたもの。

2) パリ:壁のパリ

1925年、佐伯はパリの下町の店先を題材に、重厚な石壁の質感を厚塗りの絵具で表現する独自の作風に到達しました。
圧倒的な存在感を放つ壁面の数々、その美しく複雑なマチエール(絵肌)をご覧いただきます。

このブロックでは1つ1つは何気ない風景が並んでいるのだけど、全体を眺めると、観光地ではない生活感のあるパリの存在を感じるような気がした。

3)パリ:緑のパリ

<リュクサンブール公園>
<レストラン(オテル・デュ・マルシェ)>
など。

第3章      ヴィリエ=シュル=モラン

1928年2月、佐伯はパリから電車で1時間ほどの小さな村、ヴィリエ=シュル=モランに滞在し、新たな造形を模索しました。
モランでの作品には力強く太い線と構築的な構図が復活します。寒さの厳しい中での制作は佐伯の体力を確実に奪っていき、ここが最後にまとまった数の作品を描いた場所となりました。

<カフェ・レストラン>


エピローグ

<郵便配達夫>

今回この作品を見たくて行ったといっても過言ではない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?