見出し画像

【読み切り小説】『鏡時計』

 たまに、どうしても家にいられなくなる時がある。
 それは、夜深い時もあるし、夜が明けてすぐの時もあれば、昼間や夕暮れ時のこともある。なぜだか家にいるのがとても所在なく、居心地が悪くなる時がある。別にどこか行かなければならない場所があるわけではない。家を出ていかなければいけない理由もないし、なにかやるべきことをやらないままにしているわけでもない。そもそも、80も越えようかという老人に、行くべき場所も、するべきこともそうそうあるまい。
 それなのに、と思う。それなのに、どうして自宅にいることがこんなにも居所が悪い感じがするのだろう。自宅には、かつて自分が選んだ本があり、音楽があり、コーヒーがあって、ウィスキーもある。すべて自分が気に入って集めたものたちに囲まれて、こんな気持ちになるのはどういうことだろう。
 別に、家に私以外に誰かがいるわけではない。妻は7年前に死んだ。50年近く連れ添った妻との関係は良好だった(と思いたい)。妻の病気が発覚した時、私は医者に掴みかからんばかりに怒りが湧いた。
「俺が、俺が病気になるほどの苦労をかけてきたというのか。」
 妻は、いきり立つ私をなだめるように言った。
「別に、あなたのせいという訳ではありませんよ。」
 夫である私にも、妻は最期まで敬語で話す人だった。
「生きていれば起こることです。苦労があってもなくても、関係ありませんよ。」
 実際に、その3年後に死んでしまった妻の言葉としては、あまりにも説得力がある言葉だと思う。——苦労があってもなくても、関係ありませんよ…。
 妻には苦労をなるべくかけないようにしてきたつもりだ。結婚してすぐに家庭に入った妻は(そういう時代だったのだ)私を献身的に支えてくれた。私も妻の貢献に応えるべく、家計のために働いた。手前味噌だが、私は愛妻家と言ってもよかったと思っている。結婚してからは、同僚の誘いよりも、妻を外食に連れ出すことの方を優先した。仕事仲間とのゴルフより、妻との旅行を優先した。よく会社のやつからは親しみを込めて「釣れないやつ」と呼ばれていた。
 50年も一緒に住んでいれば、それなりに諍いもないことはなかったが、それでも私は妻を愛していたし、感謝もしている。妻が家事など色々な面で私を支えてくれたが、とりわけ大きな苦労をさせた覚えはない。少なくとも家計の面では、さもしい思いをさせたことはないはずだ。その妻が、私より先に逝ったのだ。納得できなかった。そして自分が情けなくなった。仮に妻が苦労を重ねていながら平然を装っていたとしたら、私はそれに無頓着なまま隣に居座っていたことになる。医者じゃない。俺が悪いんだ。
 心が落ち着いて、私は妻に何度か詫びた。苦労をかけていたこと、それに気づかずにいたこと。でも妻は繰り返した。——苦労があってもなくても、関係ありませんよ…。
妻が死んで、周りの人は私の孤独を心配した。——「子どももいないんじゃ、寂しさもひとしおだね。」「家事とか炊事とかは大丈夫なのかい。」「奥さんに先立たれたんじゃなぁ。何か仕事でもしてないと、やってられないだろう?」等々。
 妻が死んで、私は一戸建ての家を売り払った。一人には広すぎた。妻がいなくなって余った部屋に、その過剰な広さに押しつぶされそうで、私にはとても耐えられなかった。
 私は新しく新居に移り住むことになった。この家は賃貸の物件だった。昔は純喫茶だった店舗を改装した物件で、螺旋状の階段やキッチン、レンガ風の内壁などにはその時代の名残が見える。二階もある物件だが、合計した面積自体は前の自宅よりは狭い。
 さっき家に私以外に誰もいないと言ったが、それは嘘になる。この家には今、家事をはじめ私の身の回りの世話をしてくれている50代の白髪混じりの男がいる。髪は短く切りそろえられていて、顎と口のまわりに整った上品な髭をたくわえ、ジョン・レノン風の丸眼鏡をかけている。服装は自由でいいと私は言ったのだが、その男はいつも黒のスラックスにシャツに黒いベストという(冬にはネクタイも巻いてくる)、喫茶店やバーのマスター風の出で立ちで家に来る。
 今、キッチンで夕食の準備をしているその男は、妻が死んで、家事や炊事に困った私が、友人の伝手で雇っている。平日の9時から18時まで、彼が炊事や洗濯を行ってくれることになっている。言ってみれば、私の世話役というところだ。
 夕方、二階の部屋で西日を浴びながら気もそぞろといった具合の私は外に出ることにした。私は一階に降りていった。世話役の男は、キッチンのコンロの前に立って、何か煮込んでいる。男は、下に降りて身支度を整えている私を一瞥すると、火を止めて、少し焦ったようにこちらに向かってきた。
「いや、構わないよ。」
 私は、こちらに来る彼を手で軽く制しながら、シャツの上からレインコートに袖を通し、中折れハットを探した。
「今からお出でですか?」
 世話役の男が、探していたハットを持ってきながら私に聞いた。時刻は4時半頃。
「ちょっとあたりをぶらついてくるよ。夕飯ができたら、今日は帰っていいよ。」
 私は、外出の際に持ち歩く懐中時計をコートの懐に仕舞い、外に出た。空は毒々しいほどに赤く染まっていて、西の果てに沈もうかという光源は、遠くのビル群の輪郭を鋭く浮かび上がらせていた。
 家を出て、しばらく歩き始めたが、別に目的地があるわけではなかった。家にいられなくなって、とりあえずそこ以外の場所へ行きたかったわけだから、家を出た時点で一つ目的は達成されたことにはなる。
 とはいっても、この所在なさげな気持ちが解消されるわけではない。歩いている以上、今の自分に合った居場所に落ち着くことはない。喫茶店で時間をやり過ごそうかと考えた。私は通っている喫茶店に向かった。
 帰りを急ぐ子どもたちが走り去っていく。犬の散歩をする親子連れや、自転車に乗った制服の学生たち、会社帰りと見られるスーツ姿の男女と何人もすれ違う。その流れに逆流するように歩いている老人に、たまに挨拶の言葉をかける者もいるが、ほとんどは目もくれないといった様子の者だ。
 喫茶店の前に着いたが、外から中の様子を窺う限り混みあっている。それに時間を考慮していなかった。もうすぐ閉店の時刻を迎えることもあり、今から店に入るのは図々しい気がした。私は、次なる居場所を求めて歩き出した。
 結局、いつも通う書店ならまだ開いているだろうというので、そこにたどり着くまでには、すっかりくたびれてしまっていた。自分の年齢も考えずに、かなり歩き回ってしまったのだ。老いというのは、どうしてこうも忘れやすいものなのだろう。心のどこかでは、忘れてしまいたいと思っているからだろうか。だとしたら、なんと都合の良い頭だろう。そして、なんと都合の悪い身体だろう。
 書店で、適当に小説でも買おうと、文庫本の棚の前に立った。歳も歳になってくると、本一冊買うにも少し気が引ける。家に帰り書斎の本棚を見てはじめて、以前も同じ本を買ったということを思い出すことがある。今までそれで、何冊か同じ本を買ってしまったことがある。
 このことを以前、大学で教員を定年まで勤めた友人に話したことがある。
「本ってのは、再版や新訳とかで、内容とか修正も色々あるからな。同じ本でも、中身が結構変わることは多いぞ。結構なことじゃないか。」
 友人は笑って応えた。酒に酔っていたこともあるのか、私がそんな細かい修正や改訂に注意を払うような読書をしていないことに、彼は気付いていないようだった。
 結局、聞いたこともない作家の推理小説を選ぶことにした。推理小説自体そんなに好きなわけではなかったが、別に家に帰るまでの間、時間をやり過ごせたらよいのだ。
 レジに行って会計を済まし、外に出る。腰を落ち着けられそうな手頃な場所を探す。子どもたちがすっかりいなくなった公園にベンチがあったので、そこに座った。さっき買った推理小説を読み始める。
 しかし結局、没頭することはできなかった。あたりが既に暗くなりはじめていた。段々と字は暗闇と溶け合うようになり、読むのが難しくなった。さっきまで歩き回った分、体力が削られたこともいけなかった。私は本を畳み、傍らに置いた。
 結局、何もすることなく、できることもなく、ただベンチに腰かけている恰好になってしまった。懐から懐中時計を出し、時間を確認する。5時半を少し過ぎた頃だった。
 懐中時計を使うようになったのは、いつのことだっただろうか。左利きの私は、右利き用の腕時計を右手に付けるのがなぜかしっくりこなかった。そのため、左利きだが左手に腕時計をしていた。しかし、書く時にも、食事時にも利き手に何か物が巻き付いているというのは、正直邪魔くさくもあったのだ。
 そうだ。思い出した。そんな私を見て、妻が誕生日に送ってくれた物が最初の懐中時計だった。そんなものを買う蓄えをどこに隠していたのかは知らないが、妻の細やかなやさしさに免じて、積極的に不問に付したのだ。その時計はいつか壊れてしまい、今使っているものは自分で購入したのだ。これは2代目になる。
 そうしてふと気づくと、蓋を開けた懐中時計を呆然と眺めていた。金属製の蓋の裏に、文字盤がぼやけて反射している。蓋の裏に映る文字盤は、逆巻に動く時計に見える。
 もし——。私は思った。もし、蓋の裏に映ったものが正しいとしたら。それが本当の時間を指し示すものなら、どんなに楽しく、愉快で、幸福だろうか。そして同時に、昔の方が良かったなんて思いたくなんかなかった、とも。
 こんなことを考えるのも、今日は昔のことを思い出すことが多いからだろうか。老人の都合の良い頭が作り上げた、ノスタルジックな夢想に過ぎないのだろうか。あるいは、都合の悪くなった身体からの逃避には、過去を思い出すくらいしか道はないからだろうか。私はもう、家に帰ることにした。
 あたりはとっぷりと日が暮れて、元々日当たりの悪い路地は真っ暗になっていた。空は、さっきまでの赤々とした感じから、うっすらと西の方が紫になっていた。家に帰る道中、さっきの公園のベンチに小説を忘れてきたことに気付いた。でも、もうどうでもよくなっていた。よくよく考えると、あまりおもしろそうでもなさそうだった。
 家の前までもうすぐというところまで来た。結局、私は何から逃げ回っていたのだろう。それさえもよく分からないまま、私は帰ってきた。
 自宅からは、なぜか暖色の明かりが漏れ出ていた。あの男はまだ帰っていないのか。もう、契約の時間はとっくに過ぎている。夕食の準備ができたら帰ってもよいといったのに。しかし、こういうことはあまり珍しいことでもないような気がする。前もこれに似たようなことがあって、彼の律義さを遠慮したような気がする。
 ドアを開け、玄関先のフックにハットとコートを掛けていると、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。
「おかえりなさいませ。お待ちしておりましたよ。」
 そう言った男は、私の知らない男だった。彼は服装こそあの男と似ているが、それ以外はすべて違う。一本の白髪も見当たらない黒髪を、グリースか何かで後ろにかき上げている。身長はあの男よりも高く、痩せていて、手足もすらりと長い。年齢は多く見積もっても30代前半といったところだろうか。
「夕飯の準備ができております。どうぞこちらへ。」
 男は私をダイニングへ導こうと促した。しかし、この男は一体誰なんだ。あの男は一体どこに。いや、どこに行ってもいいのだが、わけのわからないやつを残していくのはごめんだ。怪訝な表情をする私を、男もまた不思議そうに見つめた。
「おい。」
 言葉が喉につっかえるようだった。こういう時、なかなか言葉が流暢に出てこない。
「お前、誰だ。知らないやつだろ。」
 自分でも、わけのわからないことを話しているようだった。夢の中で、なぜか知らない言語を操れる自分に驚愕し戸惑っているような感覚だった。
「そんなことはございません。私は、7年前から、ずっとここであなたに仕えてきたではありませんか。」
 彼は驚いている、否、驚き慣れているようだった。
「奥様が亡くなられて、あなたがここに越してきた時からずっと、私はここであなたにお仕えしてきましたよ。」
 男はこう念を押した。
 参ったものだ。私は多分、昨日のことさえろくに覚えちゃいない。

『鏡時計』完

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?