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【エッセイ】サボテンレコード

 大学時代の友人が結婚した。
 その友人とは、大学時代に同じ軽音楽部に所属していた。彼の結婚相手は、同じクラブの1つ上の先輩だったから、俺も面識のある相手だ。二人は学生時代から付き合っていた。彼らの仲は部内では周知のことだった。そんな二人の仲が、卒業した後も続いていて、結婚にまで至ったのだ。なんとも感慨深いものがある。
 その友人は、俺の大学生活を語るには欠かせない人間だ。
 彼と初めて会った時の事を覚えている。部内の新歓の集まりでのことだった。その時、彼は長い金髪のパーマで、物静かにそこにいた。先輩たちの新歓特有の浮ついた空気感を拒否するような居ずまいの彼が自分の同期だと知った時は、「コイツとはやっていけないかもしれない」と思った。
 何分その時の彼は、かつて俺が通っていたような地元の国立大学への進学率くらいしか取柄のない自称進学校では絶対に出会うことのない人間だったのだ。あんなに派手に髪を染めたやつも初めて見た。
 その日、彼と何を話したのかは覚えていない。もしかしたら、何も話していないかもしれない。
 1年生の夏。彼が歌うのを初めて聞いた。
 彼の歌は、と言うかプレイは、俺なんかよりよほど様になっていた。彼はその当時バンドは初心者だったけど、バンドマンとしてのそのたたずまいは、同期として目を見張るものがあったのを覚えている。表現者として、俺に先んじるものが明らかにあった。
 俺は、その頃から同じバンドマンとして彼を意識し始めた。同期ということもあったかもしれないが、フロントマンを務める者同士だったこともあり、意識せざるを得なかったのかもしれない。
 2年生になると、俺と彼はことあるごとにつるむようになっていた。彼は部活の同期何人かとアパートで共同生活を始めた。一人暮らしをしていた俺は、夜になると彼や彼のルームメイトからそのアパートに呼び出された。
 夜中、時には朝方まで、何でもないことを話し続けた。音楽のこと。映画のこと。面倒な授業のやり過ごし方。美味い煙草の銘柄。部員の愚痴。恋とセックス。将来への漠然とした絶望と自分の力への果てしない過信。今になってみれば何が面白かったのかよく分からない(でも、多分今でも笑える)ジョークの数々。
 俺は気付くと、暇さえあれば彼のアパートに入り浸るようになった。呼ばれることもあったし、勝手に俺が乗り込むこともあった。
 4年生になると、俺は彼とバンドを組むようになった。くるりのコピーバンドを組んで、文化祭も一緒に出た。それまではお互いバンドでフロントマンをやることが多かったから、一緒に組むことはなかった。でも、彼は俺にギターを弾いてくれと頼んできたのだ。彼が歌って、俺が弾いた。
 彼は、大きなライブの時には俺をローディーに指名することがあった。「何か安心すんねんな」そう言って彼は、可能な限り俺にローディーを頼んだ。俺もできる限りそれを断ることはしなかった。彼のステージを支えることは、俺にとって間違いなく特別なことだった。
 その頃には、もうこいつに張り合おうなんて思っていなかった。彼には俺にない何かがあることが分かっていたし、それを自分が得ることはできないことも、何となく察したのだろう。時にはアンプの裏から、時にはステージの上手からギターをかき鳴らし歌う彼を見てきた。
 卒業直前、彼は俺をバンドに誘ってきた。「卒業後、本気でやりたい」と言った彼の言葉に、俺は真正面から応えることはできなかった。俺は結局、大学院に進学を決め東京を離れることになり、彼と会うことはおろか、東京に残った大学時代の仲間と会うことも難しくなった。
 大学院で忙しなく研究生活を送る中で、段々音楽と関わる時間をとることも難しくなった。一方、彼は卒業後もバンド活動を継続している。気が向いた時に色んなメディアで動向をチェックしている。良くも悪くも、彼は相変わらずだ。
 寒くなってくると、思い出してしまう。
 一緒に歩いた学内や街。一緒に食った飯。ギターをつま弾いてやり過ごした夜。吹かす煙草。一緒に観たグッドウィルハンティング。教えてくれたサボテンレコード。やたらバイト先に選んでいたラーメン屋たち。ハマっていた麻雀やダーツ。
 しまった。長くなっちまった。あいつへの祝辞なんて、酔って書くくらいがちょうどよかった。

 最近、とある小説を読んだ。会話がかみ合わない夫婦の話だ。二人でいながらもどこか孤独な、そんな二人の話。その小説の解説に、面白いことが書いてあった。
「意味のある会話にどれだけの意味があるのか」
 結婚とは長い会話のようなものである、というかの格言を信じるなら、この問いは夫婦にとってかなり重要だ。
 夫婦生活のはじめの方は、二人の間に意味のある会話が溢れるであろうことは容易に想像できる。例えば家のこと、車のこと、子どもはどうするか。など。
 でも、意味のある会話もいつかは尽きる。もしくは、意味のある会話に意味を見出せなくなるかもしれない。その時、乗り越えるのは先のような問いだろう。
 意味のある会話にどれだけの意味があるのか? こう問うということは、意味のある会話にあるナンセンスをなんとなく見抜いているのだろう。そして逆に「ナンセンスな会話にどれだけの無意味さがあるのか」と問いを裏返すなら、そこにはナンセンスな会話にある意味への直感があるだろう。
 この年齢になると、同級生の結婚も珍しくなくなる。俺も周りの同級生や同僚から結婚報告をされることも増えてきた。
 何となく外から色んな夫婦を見ていると、学生時代からの付き合いから結婚に至った夫婦は、そうじゃない夫婦と比べると少し違ったものがある。学生時代という人間形成の真っ最中の自立していない頃のお互いを知っている夫婦は、学生時代のまま止まった時計を一緒に持っているように感じる。
 大人になってから出会った人とは、過去の話をすることはどことなく難しいのだ。できるだけ今の話を、そしてできるだけ未来の話を。それは、大人のマナーなのだろう。そしてそんな二人の場合、夫婦になっても、それは変わらないのだろうと思う。
 今と未来の話をしようとすると、どうしても会話は意味を持ってしまう。でも、過去の話にはあまり意味がない。過ぎ去ってしまった過去は、どうしようもできないからだ。どうしようもできないものの話ほど、意味のない会話はない。
 「あの時から変わらないね」「あの時もそうだったね」そんな過去に根を張るナンセンスな会話に意味を与えてくれるのは、未熟な時代のまま止まった時計だったりするかもしれない。そして、これは結構大きい差だと、俺は思う。

 親愛なる旧友へ。おめでとう。どうか末永く、共に笑い、泣いていけるように。


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