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【連載小説】『晴子』13

 更衣室でため息をつく菖蒲ちゃんに声をかけたことがそもそもの失敗だった。
「えー、月島さんの恋人がこんな感じなんて、ちょっと意外です。」
 菖蒲ちゃんの彼氏(現在名古屋に赴任中)が、月末に予定の空きを確保できないということ。いつもは月の最後の週末は食事に出かけることを約束していた二人だが、今月はそれが実現できそうにないということ。
「これ、悪く言うつもりはないんですけど、月島さんって、ちょっと男性からしたらとっつきづらそうというか。ハードルが高そうに見えるというか。」
 今月の会う約束が彼の事情で果たされないのに、彼の方は特に申し訳なさそうな態度ではなかったこと。それが原因で、電話越しで少し揉めて、険しい雰囲気で電話を切ることになったこと。
「月島さんの彼氏?って意外に素朴で家庭的な感じがしますよね。月島さんって、もっと派手な人を選びそうなイメージ持ってたんです。」
 彼との険悪な雰囲気を改善したいが、自分から謝るのは「なんか違う気がする」から、どうしたらよいか、と私に相談してきたこと。相談の過程で、話題が逸れに逸れて私の恋愛話に流れていったこと。スマホが普及したこの時代の弊害で、すぐに恋人の写真をせびられたこと。
「月島さん?聞いてます?」
 この声で、小さな後悔に満たされた思念から私は引き上げられた。
「え、うん、ちゃんと聞いてるよ。」
 意識を向けた菖蒲ちゃんは不安気な表情を浮かべている。
「ごめんなさい。怒ってます?」
「ううん。全然怒ってないよ。」
 私が恋人にあの人を選んだ意外さ(実際はどちらが選んだともないのだが、菖蒲ちゃんの中ではそういうことになっている)についてあれこれ言ったことに、余計な申し訳なさを感じて欲しくなくて、出来るだけ穏やかに否定した。実際、菖蒲ちゃんの発言は不愉快ではなかったし。
「菖蒲ちゃんは、彼とは結構長いの?」
「1年半くらいです。」
 話を転じようと試みる。
「でも、付き合いの長さが全てではないですよね…。」
 そう言って菖蒲ちゃんは苦笑いをしながらうなだれる。
「でも、長く続くっていうことは、それなりに理由があるんじゃないかしら。確かに付き合いが長ければいいってわけではないかもしれないけど、何もないのに長く続くわけじゃないでしょ。偶然関係が長続きするってことは、そうそうないことよ。」
 菖蒲ちゃんは感心したような視線を向けてきた。
「やっぱ月島さんは違うなぁ。」
 急に恥ずかしくなったのは、柄にもなく恋愛論をつらつらと話してしまったことを自覚したからだ。
「やっぱり月島さんは大人ですね。私、やっぱり月島さんみたいにかっこよくなりたいです。」
 今日だけで菖蒲ちゃんの顔に次から次へと現れては消える表情たちをいくつ見届けただろうか。その元気の良さがあれば、例の彼との件もそこまで深刻に考える必要もないと思う。いや、些細なことをその都度深刻に受け取る人には、本当に深刻なことは降りかかってこないのではないだろうか、とも思う。
 更衣室を出ていく直前、菖蒲ちゃんが私に言い残していった。
「私、月島さんみたいになれるように、もっと頑張ります。」
 全体的にウサギみたいな体躯を翻して、ドアを開け放ち出て行った。残された私は、なぜだか菖蒲ちゃんの童顔には似合わない乳房を思い出しながら、中断していた着替えを始める。もし、あの人と私がただの恋愛関係にないことを知ったら、それでも菖蒲ちゃんは私のことを「かっこいい」と言うだろうか。
 試してみたい気もしたけど、反応を予測すると、単純に面倒くさい気もした。

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