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【連載小説】『晴子』18

 あの人と、久々に夜を共にすることができた。季節は出会った頃と同じような冬になっていた。今年の冬は本当に寒く、むき出しの皮膚が鋭利な何かで引っかかれるような寒さだった。これで雪が降らないのは驚きだ。昼夜を問わずベッドから出づらい。特に今の私の場合は、あの人の腕に抱かれているからなおさらだ。
「ねえ。」
 あの人に話しかける。お互いに重く、鈍いまどろみの中にいた。
「何?」
「聞きたいことがあるの。」
「なんでもどうぞ。」
 一息置く。
「名前のことを聞きたいの。」
「僕の?」
「あなたの娘の。」
 言葉の一つ一つが、このまどろみの重さに対応しているかのように、会話はゆっくり進んでいった。
「娘に名前を付けるとき、どんなことを考えてた?」
 あの人は私の髪をゆっくり撫でて、私の身体を自分に押し付ける。
「どうしたんだい。急にそんなこと。」
「出会った時に言ったわよね。私。自分の名前が好きじゃないって。」
「言ってたね。」
「それで、あなたに聞いてみたかったの。子どもに名前を付ける時、親はどんなことを祈って、その名前を付けるんだろうって。誰かの親であるあなたに。」
 あの人は、彼の胸にうずめていた私の顔を離して、私と目を合わせて答えた。
「祈りなんてないさ。」
「え?」
 以外な返答に、私は次にするべき応答を見失った。
「祈りとかは、特にないね。子どもたちがどうなって行って欲しいかと、実際にどうなっていくかは違う。」
 彼はもう一度、私の頭を抱き寄せて続けた。
「僕の子どもたちは、その名前に祈りなんてないんだ。」
「じゃあ、どうやってあの子たちの名前を決めたの?」
「僕は、名前を記憶にしたんだ。」
「記憶?」
「そう。例えば、一番上の秋葉(あきは)は、生まれたのは秋で、紅葉とか楓とかそういった木々が黄色く染まっていた時に生まれたんだ。だから秋葉。下の子は冬生まれで、夜空が澄んでいて星がきれいだったんだ。だから美しい夜で美夜。こんな風に決めたんだ。親の願いとかそんなんじゃなくて、自分が生まれた日のことを、一場面でもその名前に刻む方がいいと思って。」
 彼の娘たちの名前を聞いて、私の名前のことを考えた。私の名前にも、親の願いではなく、私が生まれた日の一部が刻まれているのだろうか。
 そして、もう一つ気になるのは、あの人が私にくれた名前のことだ。麻美という名前も、そうやって名付けたのだろうか。
「ねえ。もう一つ聞いていい?」
「もちろん。」
 彼は快く応じてくれた。
「あなたが名付けた人は、二人の娘以外にもう一人いるでしょ。」
「君だね。麻美。」
 あの人は、私に優しく微笑みかけた。
「私の名前は?」
「気に入らなかったかい?」
「そうじゃないの。ただの好奇心よ。」
「ただの好奇心か…。」
 彼は繰り返した。もう二人とも、睡魔に囚われようとしていた。
「麻のドレスを着ていたろう?初めて会った時。」
 続ける彼の声には、もう半分眠りが忍び込んでいる。その声を聴く私にも。
「それが、君にすごく似合っていて。すごくきれいで…。」
 もうダメだ。多分、もうこれ以上は、明日の朝になれば何も覚えていない。

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