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【連載小説】『晴子』9

 片方のイヤホンからFacesを流しながら、俺は森彩也子の話を聞き流している。——ああ。はい。ええ。そうですね。そうなんですか?大体この手の返事をルーティンしておけば(そしてたまにオウム返しを挟めば)、何となく満足して帰っていく人間が大半だ。あとは、相手が満足に至るまでどれだけの時間を要するかが問題になる。だから今俺は、いつになったらイヤホンを両耳に差して、ちゃんとFacesを聴けるのだろうかということを気にしている。
「でね、私の友達が結局その先輩と別れることになったらしくてね。」
 森の話の大筋はこうだ。森の友達が恋人となんやかんやあって別れたらしいのだ。森が話の最初の方で概要を言ってしまったため、あとは結果に至るまでを詳細に語られるだけで、俺はそこに至る過程に興味なんてない。イヤホンを片方にしながら人の話を聞くのは失礼な人間に映るかもしれないが、これは話に興味がない、もしくはもう聞きたくないという意思表示のつもりだった。
 森はバイトと大学が同じで、俺より2つ年上の女だ。バイト中も声がはきはきしていて、新人バイトの教育係も引き受けている。はつらつとしていて、見た目も悪くないのだが、営業時間が終わって締め作業の最中でも、余計なことをペラペラ喋り散らすのは少し苦手だ。俺は、一応バイト先では愛想を振りまいているつもりで、それはバイトの人間の反応を見る限り功を奏しているようだが、一方でそうであるが故に厄介ごとにも巻き込まれやすい。例えば、今みたいに。
 店のカギを締める直前に、ビールサーバーの洗浄をしていないことに気付いた。みんなバイト着から着替えてしまった後だった。たまたま着替えが遅れていた俺は、ビールサーバーの仕事を請け負うことにした。イヤホンを耳に差して、サーバー洗浄を始めようとしたとき、更衣室に一人残っていた森がキッチンに戻ってきた。
「先に帰ってもらっていいですよ。カギも締めとくので。」
とは言ったが、森は、
「えー、でもそれじゃ竹下君かわいそうじゃん。」
 と謎の気遣いを見せた。結局、そこから森は俺のビールサーバー洗浄を待つことになったのだ。適当に会話に付き合っていたら、森の方は止まらなくなり、現在に至るわけだ。
「でもさ、やっぱりそれじゃかわいそうっていうかさ。彼氏の方も別れ切り出すにしても、もうちょっとうまくやれないもんかね。」
 片方からハスキーヴォイスのシャウトが、片方から森の止めどない与太話が流れ込んできた。段々、その別れを切り出された友達とやらの心情が憑依していくような話ぶりの彼女を見て、同情が過ぎるところも、この人の苦手なところだと思った。
「ねえ…ねえ?」
 森がこちらの反応を求めていたことに気付いて、俺はそろそろFacesをあきらめる覚悟を決め、片方だけしていたイヤホンを外した。
「あ、はい。」
「話聞いてなかったでしょ。」
 森は、俺の方を怪しむような声で聴いてきた。一応、表情も歪んではいるが、実際に不機嫌なわけではないようだ。
「すみません。5、6割くらいしか聞いてませんでした。」
 もうこれ以上は粘れまいと白状することにした。
「まあ、竹下君もお疲れだもんねえ。」
 俺はビールサーバーの洗浄に使った道具を片付ける段に取り掛かった。森は鍵のついたキーホルダーを指に引っかけて回しながら、キッチンやホールをそれとなくぶらついていた。
 一通り、片付けが終わるころには、森は従業員専用の出入り口の前に待ち構えていた。
「お待たせしました。」
「ごめんね、私もうるさく喋っちゃって。」
 俺はタイムカードを切った。俺と森しかいない店内だと、機械音の響きが悪目立ちする。俺たちは店を出て、森がカギを締め、扉のすぐ横にあるナンバーロック付きのポストにカギを落とし込んだ。静かな夜に、金属同士がかち合う音が染み込んでいった。
 それから、俺たちは駅に向かって歩いて行った。夏真っ盛りで深夜になっても暑さが和らがない。人通りが少ないから通りは歩きやすいが、街の至るところにはさっきまで人が出歩いていた気配が残っているような気がする。
「竹下君は、どうなの?」
 森が唐突に聞いてきた。
「何がですか?」
「その、好きな人とかさ。いないの?」
 世間一般の大学生には、こういう話題しかないのだろうか。半ば呆れ気味ではあったが、それを顔には出さないくらいのことはわけない。
「いないですねえ。恋愛はさっぱりっすね~。」
 流すように答えたが、森の方はまだこの話題から引き下がろうとしない。
「竹下君のそういう浮いた話聞かないよね。」
 早く駅が近づいてきてほしいと思った。この手の話にはもう飽き飽きしているのだ。もっと、ゾクゾクするような話題はないのか。彼女はもう大学4年だから、この話題を切り上げたところで次は就活にまつわる気の早いお節介が聞こえてくるだけだろう。それよりはこの話題の方がまだマシだろうか。
「どんな人がタイプなの?」
 さっきの店の中とは違って、質問を両耳でまともに聞いてしまったから、今度の質問は受け流せない。だが、急にタイプとか聞かれても、ぱっと思い浮かぶものはなかった。
「そうですね。まあ、ショートカットで、口が大きくて、歌が上手い人ですかね。」
 言葉を選びながら答えたからか、喋りがたどたどしくなってしまった。本当に、早く駅に着いてほしい。
 そこから、俺のタイプにもっとも当てはまる人物は誰かという話になり(これのどこが楽しいのだか)、そこから転じて、バイト先の人間関係にまつわる愚痴や噂の話になった。駅が、本当に遠かった。
 俺と森は、駅前で別れることになった。森と別れてしばらく経ってきた脱力が、さっきまで俺を支配していた緊張感を浮き彫りにした。どっと疲れた、というより、疲れを自覚できるほどの空白が急に流れ込んできたのだろう。
 線路沿いを歩きながら、森に乱された何かを取り戻そうとしていた。俺の歩いている横を、人をまばらに積んだ電車が前から後ろから通過していく。音がうるさくて、iPodでFacesを聴き直すことにする。深夜だから道ですれ違う人間は少なかった。人より電車の方がすれ違う回数が多い。
 線路沿いの道を外れて、段々歩く道が暗くなっていく。街灯は十分にあるはずなのに、暗く感じるのはいつものことで、それが果たして俺だけがそうなのかは分からない。
 このあたりでは一番大きい公園の周りがいつもの帰り道だ。公園も暗闇にすっかり隠れて、生垣の高さも判然としない。公園の周辺にバス停があって、そのすぐ横に公衆電話がある。公衆電話の明かりが、夜気を裂くようにぼうっと浮かび上がっている。都会の外れとはいえ、スマホがこんだけ普及した世の中に、公衆電話なんか置かれているのを見ることはなくなってきている。
 その明かりにつられて、俺は公衆電話の箱の中に入った。まるで虫だな、と思いながら、受話器を取り上げた。小銭を放り込んで、いつもの電話番号を押す。向こう側で誰が受話器を取っているのかすら分からない。声からして若い女ということだけは分かるが、それだけだ。別に、何を話すという訳ではない。俺はただ、黙っているだけだ。
 森の話なんかより、よっぽど興奮する。

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