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【読み切り小説】『ルーム』

 モダンハイツ202号室。私に名前があるとすれば、こうなるだろうか。でも、これも便宜上付けられたもので、元々私は名前のない空間だったのです。私はいつからか分からぬほど前から、一つの空間としてそこにあり続けたわけです。そこに幾多の人間が往来し、空間を壁や垣で仕切りその所有権を主張する者が現れました。やがてその所有権が譲渡されたり売買されたりして、最終的に今ここは先のような名前を付けられたアパートの一室になっている。
 長いことここに居座っていると、色々な人に出くわします。飢餓に苦しむ農民の姿や、志半ばに散っていった無念の藩士を見てきました。新しい命の誕生という喜ばしい出来事が起こったかと思えば、貧乏故に子を捨てる母親に出会いました。戦争の時には、爆撃にさらされた街で足を引き摺って歩く少年や、瓦礫に向かって家族の名前を叫ぶ少女を見ました。私は災害や戦争で何度も建物であることをやめ、その度に何人もの人間を下敷きにしてきたし、再建によって何度も建物になってきた。
 戦争が終わって、平和な世の中になりました。めったに建物が壊されることはなくなりました。そりゃ、少しは傷がついたり壊れたりすることはあっても、あの時みたいに派手に吹っ飛ばされることはありません。そして今のように、モダンハイツという文字通りモダンなアパートが建てられたのは、今から20年程前でしょうか。
 私がこの建物の一室になってから、この部屋にはいろんな人が住んでは去って行きました。
 初めての入居者を覚えています。サラリーマンだったのでしょうか、毎日スーツを着て出勤していました。見た感じ年齢は20代後半くらいに見えました。
 彼に異変が起こったのは、ここに住み始めて3か月程経った頃です。もしかしたら、少しずつおかしくなっていたのかもしれません。家に帰ってきても、ほぼ毎日パソコンを開き、せわしなく電話口で誰かと話していました。時にはそれが明け方まで続くこともあり、ろくに睡眠もとらずに出勤していくこともありました。
 彼はやがて、疲労を超えたある種の狂気を隠せなくなっていました。目の周りは真っ暗のクマができていて、家に帰ってくるなり、冷蔵庫にストックされた酒に手を伸ばすようになった。部屋の物は秩序を失い、ゴミは循環を止めてそこにとどまり、腐臭を放つものが放置されていました。
 ある日、男は突然、力なく笑い始めました。目には生気がありません。彼は笑い続けました。笑うべき何物かがあるのではなく、動く物体の慣性を阻む何かを失ったかのように、笑いを止められないのです。その翌日、彼は首を吊りました。
 次に入居してきたのは、女でした。学生でしょうか。その女はある男に入れ込んでいて、この男が良くなかった。その男はお世辞にもきちんとした男とは言えず、女に容赦なく金を無心しては碌でもないことに費やし、他の女の匂いを纏わせてはこの部屋にやって来て女を激昂させたりしました。しかしその男は口達者で、彼女の絆し方をよく心得ていた。
 彼女もバカではなかったので、自分の愛情が報いのないものであることをどこかで分かっていたのでしょう。男を憎みこそすれ離れられずにいました。彼女は、愛と執着の分別を失っていた。
 ある日、酒臭いあの男が彼女の家に来た。酒に酔った男が彼女に抱きつくやいなや情事が始まった。事を終え、男が眠りこけたのを認めて、彼女は彼の腕をすり抜けた。ベルトを持ち出して、横向きに寝ている彼の首にそれを巻き付ける。締め上げる。男は目を覚ます。目を大きく見張って抵抗するが、女も屈しない。しかし、女の力ではとどめを刺すまでに至らない。
 彼女は諦めて台所に向かった。男は数十秒も奪われた呼吸を取り戻すようにむせながら彼女を追いかけようとしたが、少量の吐しゃ物がせりあがって来るのを感じてすぐにくずおれた。
 その時、女は手に包丁を持っていた。彼女は、彼の背中に包丁を突き立てた。男は、口から吐しゃ物と一緒に血を吐き出した。それは女の膝を汚した。女は、彼女に跪くようにして崩れる男の背中を覆うようにして膝に抱え込んだ。男はやがて息絶えた。女は警察に電話をし、部屋の鍵を開け、そのあと風呂場で…。まあ、ここから先は察してくれ。
 ここまで人の生き死にに関わることが立て続けに起こると、この部屋には人がなかなか寄り付かなくなった。人々はやがて、この部屋を「事故物件」と呼ぶようになった。不動産も私を人に紹介する時は、「心理的瑕疵あり」とかなんとか言って、人を怖がらせる。揚句の果てに、周辺住民は昔の逸話を持ち出して、捨て子の祟りだの、無念に散った藩士の怨念だのと言い出す始末。
 どいつもこいつも、堕ちていく自らの境遇を省みず、堕ちていく誰かに手を差し伸べず、そのくせ、いざそいつが死ねば事故物件のせいにしやがる。図に乗るのも大概にしてほしい。そもそも、全部お前たちのせいじゃないか。ここで命を落とすのは、お前たちが愚鈍で未熟で冷徹だからじゃないか。まるでここで人が命を落とすのは私に原因があるかのような物言いをしやがって。
 そして今、私の元に次の入居者がやって来た。内見の時に、「心理的瑕疵あり」と聞いて好奇心をときめかせていた若い男で、随分と調子に乗った奴だ。物に意志がなく、それ自体では何もできないと思いやがって。覚悟しておけ。私は近頃ずっと機嫌が悪いんだ。

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