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西南の役

 鹿児島の士族が、西郷隆盛を推し立てて起こした反乱です。

 明治六年(一八七二)に征韓論に敗れて参議を辞めた西郷隆盛は、鹿児島に帰って私学校を開き、子弟の育成にあたりました。

 当時、鹿児島県は士族の禄制も改められず、地租改正も行われず、中央からの命令・伝達も県令の大山綱良が握り潰していました。

 地租改正に反対する農民一揆や佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、思案橋の変、が相次いで起こり、全国的に反政府気運が漲っていた当時でしたが、これらの乱が弾圧鎮静されますと、不平士族も民権派も鹿児島に期待したようです。

 大久保らの政府も当面の敵は鹿児島として、他地方との結合を警戒しておりました。

 明治十年、私学校の生徒が、政府派遣の巡査を西郷暗殺者として捕らえ、火薬庫や造船所を襲撃しました。
 事ここに至って西郷も生徒の行動を押えきれず、「政府問責」の名の下に反乱を起こしました。

 ついでながら、もともと日本語には『暗殺』という単語は無く、訳者が英語のアサシネーションに音が似ているので創った語といわれておりますが、本当かどうか?

 鹿児島軍は熊本城を包囲しましたが、この城を攻略できないうちに、有栖川宮熾仁親王を征討総督に、山縣有朋、川村純義を参軍とする政府軍が、四月十五日に熊本城内との連絡に成功しました。
 この連絡をつけた谷村伍長の話は、国民学校になるまえの小学校一年生の終身の教科書に載っていました。

 政府軍は、敗走する鹿児島軍を追って、六月一日に人吉、七月二十四日に都城、同三十一日に宮崎砂土原を占領、ついに九月二十四日、鹿児島を攻略しました。

 西南の役は反動士族の最後のそして最大の反乱でありましたが、徴兵軍隊に敗れたことは、明治政府に対して武力で反抗しても叶わないことを、広く世間に知らしめた結果となりました。

 当時の政府の兵力は六鎮台と近衛部隊を合わせて四万弱であり、人員不足を補うのに、旧武士から巡査を募集して、新撰旅団を編成しました。
 また陸軍少将兼大警視(後の改正で警視総監)川路としあきらは、現職巡査で編成した征討別働隊第三旅団を指揮しました。
 

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