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江戸をぶらつこう(隅田川)

(隅田川)

 甲武信岳こぶしだけが水源で、東京湾に注ぐ荒川の最下流であったが、水防のために設けた荒川放水路に昭和40年頃、本流の名を盗られてしまったそうです。
 滝廉太郎の「花」で有名な、春のうららの隅田川です。
 昔は流域ごとに名前がありました。
 入り江からうまやの渡し(厩橋)を大川、厩の渡しから現在の吾妻橋辺り迄を宮戸川、その上流を隅田川と言いましたが、荒川の本流でありましたので、荒川と隅田川は同一のものでした。
 現在では、荒川放水路を造る時にできた岩淵水門までが隅田川で、水門より上流は荒川とはっきり区別されるようになりました。

 在原業平ありわらのなりひらが、
「名にし負わばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」と歌ったのは現在の言問橋ことといばし辺りですが、近くに業平橋なりひらばしもあります。
 都鳥なんて雅な名前を知らない鄙人ひなびとである江戸っ子の自虐の川柳があります。
「隅田川ところの人はかもめなり」

 現在、宮戸川は落語の中にしか登場しません。
 活動屋で食通で知られた山本嘉次郎が褒めた中華そば屋が厩橋の西詰にありますが、其処でおばさんに宮戸川を尋ねたら「しらない」という返事でした。この人で無かったかも知れません。

 大川も棺桶に片足を突っ込んだ古手の職人からしか聞けない言葉になってしまいました。
 大川の名は江戸・明治を背景にした小説によく出てきますが、余所から出て来た人が知らずに使いますと、寿司屋でヅケ、サガヤなんてのたも半可通はんかつうと同一視されてしまいます。

 隅田川は川開きの花火でも名が高いのです。
 始まりは万治年間と言いますから、一六五八年から一六六0年の四代将軍家綱の頃です。

 下町では、川開きの前には茎付きの枝豆を食べ、川開きの後には茎から取った枝豆を食べていたそうな。古い家や仕来りを守ることの好きな家には、今もこの習慣が残っているようです。

 隅田川に架かる最初の橋は両国橋です。
 昭和の初めに完成した千住大橋、白髭橋、言問橋、吾妻橋、厩橋、蔵前橋、両国橋、新大橋、清洲橋、永代橋、勝鬨橋があります。
 それらの橋の形はアーチ、トラス、吊り橋等、夫々趣向を凝らして一つとして同じ物はありません。橋梁工学では国宝級とのことです。

 清洲橋は東洋一の吊り橋で、勝鬨橋は東洋一の跳ね橋です。新大橋が先にガタがきて、昭和五十三年に架け替えが完了しましたが、他のクラシックな橋と釣り合いがとれず浮いた感じです。知らないうちに佃大橋、隅田川大橋、人道専門の桜橋などができていまは二十に余るといわれます。他に鉄道橋が四つ程あります。
 

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