『当事者は嘘をつく』を読んで③~ぼくとの相違点について~

①ではぼくと筆者の小松原さんとの差異に、②では共通点に注目して書いてきた。ここに来て、また、相違点について書いて行きたい。ここでいう「相違点」とは、一見共通するのだが、その実、ディティールが異なるとか、そういう細かい違いに注目したいからこそ、あえて別立てにしてみた。

上記で記したような意味での「相違点」もいくらか論述できる内容はあるのだけれど、ここではあえて、「障害者運動を担った『青い芝の会』や女性解放運動のウーマンリブの言葉」(p. 93)から受けた影響に絞りたい。

筆者は、横塚晃一の『母よ!殺すな』や田中美津の『いのちの女たちへ』を読み、とても影響を受けたとしている。それはそのまま、自分の読書遍歴とも重なっていた。これにはさすがにぼくもビックリした。

しかし、それぞれの著作から特に影響を受けたのであろう部分を引用していると思われる箇所については、ぼくと筆者とで大きく異なる。

「脳性マヒのありのままの存在を主張することが我々『青い芝』の運動である以上、必然的に親からの解放を求めなければならない。泣きながらでも親不幸(原文ママ)を詫びながらでも、親の偏愛を蹴っ飛ばさなければならないのが我々の宿命である(横塚晃一『母よ!殺すな』生活書院、2007年、27頁(改行)横塚の言葉に触れたとき、私の頭は勝手に「親」を支援者に入れ替えており、これまで講座やシンポジウムで見た精神科医やカウンセラーの顔が一気によみがえってきた。それまで支援者たちが語った、傷ついた性暴力被害者を助けてあげたいと思う、善意に満ちた言葉のすべてに対し、私は『蹴っ飛ばさなければならない』のだろうか」(p. 94-95)。

支援者と「徹底的な対立関係を求めた」(p. 92)筆者からすれば、支援者との関係性を想起させる記述にアクセントが置かれる。翻って、ぼくの立場からは、『母よ!殺すな』から最も影響を受けた箇所を引けと言われれば、以下を引くことになるだろう。

「脳性マヒ者としての真の自覚とは、鏡の前に立ち止って(それがどんなに辛くても)自分の姿をはっきりとみつめることであり、次の瞬間再び自分の立場に帰って、社会の偏見・差別と闘うことではないでしょうか。そこにおける我々の主張は単なる自分だけの利益獲得におわることはないでしょう。それは人類が過去何千年かにわたって取り組んで来た人間とは何か?人間社会のあり方はどうあるべきか?ということに我々自身の立場からかかわることであり、これが真の社会参加ということだと思います」(横塚晃一 2007 『母よ!殺すな』生活書院, 87)

付言すると、一面では、鏡の中の自己を凝視するということは、資本主義社会において「本来あってはならない存在」(同上, 94)である脳性マヒ者としての自覚を促し、社会変革に向けた主体として自己を立ち上げるための実践であったと言える部分が強いと思っている。

自分が初めてこの本に触れた20歳頃は、元不登校として、早稲田大学に現役で入ったけど、順当に留年を済ませた後だった。そして、共依存からのDV関係という展開も始まっており、「自分自身が父親のようになっていく恐怖」に打ちひしがれていた時期だった。さらに言えば、精神科ユーザーとして精神科やカウンセリングにかかっていた頃だろう。

マジョリティと異なるから、逸脱者は名づけられる。
不登校・ひきこもり、DV加害者、精神科ユーザーという立場にあったぼくは、これらのネガティヴな名づけに耐えられなかった。耐えられないなりに、こういうマイノリティに対する名づけというのは、横塚が言うようにマジョリティからすれば、「本来あってはならない存在」だからこそ、一方的に名づけられ、生の尊厳を奪われる構造がこの世の中には存在するのだろう、と直観していた。だからぼくは長らく、自分自身を「本来あってはならない存在」だと自己認識していたし、自己規定した。

それはきっと悲しく、苦しい記憶だよな…と、今は思う。
筆者のように支援者との関係を想起することはなかったし、むしろ彼女の引用部分は、家族関係に苦しんできた自分にとっては、そのまま偏愛を蹴っ飛ばし、パターナリズムを拒絶する際のエンパワーメントの言葉であった。

田中美津の『いのちの女たちへ』の引用部分はどうだろうか?

「いってみれば運悪く蹴つまずいてしまった女が、誰か助け起こしてくれるんじゃないかと、長い間惨めったらしく待っていたが、結局自分で起きあがるしかないと気づいて、このあたしがクズであるハズないじゃないか!と立ち上ったのがあたしのリブであった」(河出書庫 、1992、138頁)(改行)この田中の言葉は、自分のことを言っているとしか思えなかった。暴力によりひどく傷ついた私は、誰かの救いを待っていたがどうにもならなかった。私は自助グループの活動を始め、当事者のお互いのつながりのなかで自ら『生きること』を選んだのだ。だからこそ、田中の言葉は鋭く私の心を刺した」(p. 96)。

「いま痛い人間は、そもそも人にわかりやすく話してあげる余裕なもち合わせてはいないのだ。しかしそのとり乱しこそ、あたしたちのことばであり、あたしたちの生命そのものなのだ。それは、わかる人にはわかっていく。そうとしかいいようのないことばとしてある。痛みを原点とした本音とは、その存在が語ることばであり、あたしたちの〈とり乱し〉に対し、ことばを要求してくる人に、所詮何を話したところで通じるわけもないことだ。コミュニケートとはことばではなく、存在と存在が、その生きざまを出会わせる中で、魂をふれ合わしていくことなのだから!(同前、85-86頁)(改行)田中がここで述べている『魂をふれ合わせる』ようなコミュニケーションとは、あの自助グループで私が経験したあれのことだ、とすぐに理解できた。あそこで飛び交った言葉は、暗号や符牒のようなもので、語られたことの正しさやわかりやすさとは関係がなかった。お互いに絞り出した断片的な言葉だけで、心が震えて『わかる!』と叫び出しそうになった。それこそが、私にとっての『性暴力被害者の語り』であった」(p. 96-97)。

田中の「とり乱し」論は、ぼくも大好きだ。けど、筆者が自助グループで感じていたというような「共振」(p. 55)に関してはよくわからない。そんなもの自助グループで経験したことがない。

ちなみに「共振」とは、「ある経験を語っている人の言葉だけではなく、その人の見た景色や味わった感覚が、直接流れ込んでくる。こうした誰かの語りに対する自己の動揺」(p. 55)のことを指すらしい。ん~、よく考えたら、自助グループとか同質の問題を抱える当事者みたいな者に範囲を限定しなければ経験ないわけでもないような気もしてきたが。とりあえずいいや。

前半部分の引用については、次に書こうと思っているぼくと筆者の「支援者観」とでいった具合で書こうと思っている内容に被りそうだから、とりあえず割愛させていただく。

実は自分自身、『いのちの女たちへ』の読書感想文を数年前に書き、それを既にnoteにも挙げている。長くなるがその文章から引用しよう。

田中は、コレクティブという女同士の共同生活における人間関係について、「あたしが生きるは、あたしが生きる。それにいくらかでも便乗してきそうな赤の他人がいたら、あんたなんか知らないよと、背中を向ける中からしか、あたしたちのやさしさも、自立もありえない」(298)としており、このようなコレクティブにおける「関係性の作り方は、グループ以外の人に対しても同じ」(301)だとしている。ここら辺読んで、うんうん、わかるわかる!と自分の経験と照らし合わせて勝手にひとり興奮しました。
「大樹であるハズもないのに寄りかかってくる人がいて、それじゃなくてもわかりやすいことば云々かんぬんに始まって「運動の要請」とやらが陰になり陽なたになりおっかぶさってくるのに。やらねばならないリブ、になる危険さといつも背中合わせのあたしたちであれば、どんな形にしろすがりつかれるのは迷惑以外のものではない」(301)。なんで世の中では、自分自身を生ききろうとすると、こんなにも多くの障壁が出てくるのでしょう?「今日この時を、己れの思いのままに生きようとする人々は、その存在自体が支配者にとって目ざわり」(262)だからでしょうか?活動を続けていくうちに、周囲から「リブの最左翼派などと決め込まれ」(302)ていった田中は、一度リブから距離を取ることにしたという。思うに、その道の「権威」になってしまったら、その人はその人自身を生ききれない。多くの場合、「権威」というイメージや肩書きが先行して、それが本人にとって重石や鎧となって、自由に息が出来なくなるのではないかと思う。「自分の立場」から言葉を発することが難しくなるように思われる。現に、田中もそのような風潮に対して、「チャンチャラおかしいと否定しつつも、なんとはなしに頭デッカチになっていく己れがあっ」(302)たとしている。だからこそ、一度、そのような自分の社会的立場から退いたのだろう。
最後のアーティストの言葉の引用がとても素敵だ。「ぼくらはロックン・ロール・バンドでもなければ、クラシック・バンドでもジャズ・バンドでもない。ぼくらはただ音楽をやるバンドなんだ」(304)。なぜ、「運動」や「活動」をみると人は、それらの営みの持つ「社会的意義」を知りたがるのだろう。なぜ、人は、それらの営みに「意味」があることを求めるのだろう。ただ、自分たちが生きるためにやっている。それじゃダメなのだろうか。
「当事者」が集まると、すぐにその「意味」や「効用」が周囲から過剰な程期待されるように感じる。けど、「楽しいから集まってるだけ」じゃ、ダメなんですかね~?

ぼくにも筆者同様、セルフヘルプグループで活動をしていた経験がある。だが、彼女とぼくとでは、セルフヘルプグループの捉え方も考え方も異なる。そして、ひきこもりサミットはぼくが立ち上げ、運営していた当事者グループであり、名前に反して本質的に「ひきこもりのためのグループではなかった」というややこしさを持っている。だからぼくには筆者と違い、セルフヘルプグループで、集合的アイデンティティを構築するなんて選択肢はない。

「いつも、私を助けてくれるのは当事者だった」(p. 128)とつぶやく筆者とは異なり、卒論で書いたところによればぼく自身は、「思えば、ぼくの話を聞いてくれた人達自身、いろいろと大変な経験をしてきた人達だった」。決して、同質な問題を抱える当事者ではなかったし、ぼくはそこにこだわりがなかった。そもそも「同質な問題を抱える当事者」という存在はフィクションだと思っていた。

筆者の各引用からは、支援者との対立姿勢、原体験での躓き、セルフヘルプグループとの出会い⇒そこでの回復の経験といった流れが読み取れる。翻って、ぼくは横塚晃一からも田中美津からもかなり一貫したメッセージを受け取っている。

それは彼ら彼女らが、マイノリティとしてこの社会にあって、にもかかわらずあくまでこの社会において自分自身を生き切ろうとする姿勢や生き様、それに伴い紡ぎ出される切実なことばたちや実践に対するリスペクトだった。

自分自身もあのように生きたい!といつも思っていた。

このような障害者運動・女性解放運動の実践者たちの生き様に大いに影響を受けたぼくは大学時代、自分自身よく名乗っている当事者研究者という生き方を以下のように定義した。

当事者研究者という生き方は、自らの歩んできた人生の「価値」や経験の意味を専門家をはじめとする社会や他者から一方的に価値判断され、「もの言わぬ他者」として規定されてきた存在というパースペクティヴから「当事者研究」を実践することで、「もうこれ以上、社会的価値観に基づいて、一方的に自分のことを解釈させないぞ」という決意と共に、「自ら新たな物語を生み出していく存在」(中村 2011 : 225)になるということである。

同じ社会運動に影響を受けた、と言っても、その受け取りての立場や文脈によって、その運動のどこにアクセントが置かれるのか、どこに惹かれるのか、どこに特に影響を受けたのかといった差異を実感していただけたのではないかと思われる。

明日は、ぼくと小松原さんとの「支援者」にまつわる異同を書こうと思う。

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