⑤~自己評価の厳しさと過去の自分自身の赦せなさと~

以前、「関東在住の大学院生が福岡移住に至る物語」の話をしたら、完成したら是非読んでみたい!と声をかけてくれていた人がいた。完成後、URLを送ると彼女はおもしろがってあっという間に読んでくれた。

ただ、事前の取り決めというか約束として「9,10,11、17、23は読まないでもらえるとありがたい」と話していたのだけれど、勢いや興味関心もあって、読んじゃったと後から言われた。これと関連する出来事で、別立てて書きたいと思っていることがあるけど、今回のテーマと関わる部分で言うと、読んでくれた方は、「私が知っているやそらさんのイメージとやそらさんが自分自身に下している自己評価との乖離を感じた」とフィードバックをくださった点に注目したい。

ぼくは咄嗟に答えていた。

「ぼくは、自分自身への自己評価が厳しいんだよね…」

理由はぼんやりわかっている。
すこし話を細かく分けると、「自己評価が低い理由」と「自己評価が厳しい理由」のふたつがあると思っている。

前者は、自立生活運動という「当事者優位の世界」に長年いたことだ。そこでは、支援者や専門家の「専門性」が否定され、非当事者であるぼくの「能力」を発揮する機会が制限され続けていたように感じていた。

どうしようもなかった20代前半に自立生活運動に拾われた身としては、自分には「これしかできないかもしれない…」という不安感や不全感が常にあったような気がする。そういう文化や土壌に居続けてしまった結果として、「自己評価が低い」のはあるかな~と思っている。

ある面では、「当事者優位の世界」に長く居過ぎた結果、自分自身の力やエネルギーも抑圧されていたというか、奪われていたというか…、あんまりこんなこと言いたくないけど、そんな実感もあるにはある。

今回の主題であるぼくの「自己評価が厳しい理由」だが、それは、ぼくの原体験に遡る。襖を隔たれた子ども部屋で泣くしかできない下の3人子どもと襖を隔てたリビングで怒号を挙げる父と泣き崩れている母、そのふたりの間に割って入る上3人の兄姉たち。

何度も想起して、ぼくを「過去へと引き戻す原風景」…。

ぼくはその原風景において、泣いてみたり、泣いても現実は何一つ変わらないことを痛感してから、自分の感情を切り離してからも、「目の前の現実」を何一つ変えることができなかった。

その限りにおいて、ぼくは“無力”で“無価値”な存在だ。

そんなぼくなので、THE FIRST SLAM DUNKの宮城リョータと母が和解していく様は、映画館で見るたびに涙していた。

父が亡くなり、憧れていた兄も立て続けに海難事故で亡くし…、墓前を前に呆然とたたずむ母親に対して、インターハイで山王工業と対戦することになったリョータは、彼の原風景のなかで泣き崩れている母親を抱きしめる。

この間、「今、ここを生きるということ」などという文章を書いたが、ぼくの一部は未だに「今、ここを生きられていない」。自分自身への自己評価の厳しさは、その証左として、自分は認識している。

ぼくは過去から現在に至るまで、どこかで、“無力”で“無価値”な自分を赦せていないのだ。

最近、職場のピアスタッフの先輩にこんなことを言われた。

「大学院の博士まできていて、三福祉士も持っていて、そういう当事者経験もあって、それだけの才能や能力は普通は持てないですから、今後はそうした才能や能力を社会のより多くの人を喜ばせるために使えるといいですね」

真っすぐで素敵だな~と思った。
そんな風に思えたらどれだけ素敵で、人生楽しいだろう。
その発言をうけたぼくは、明らかに次の瞬間に急ブレーキを踏んでいた。

家の問題や歴史と闘うために、障害者運動に深くコミットしていった。大学院まで行って、理論武装をする必要があった。そうして気づいたら博士課程にいた。アカデミズムで食えそうになかった場合のリスクヘッジとして三福祉士を取った。

ぼくの実感や実態はこのようにぼく自身は捉えている。

こんなんだから「私が知っているやそらさんのイメージとやそらさんが自分自身に下している自己評価との乖離を感じた」なんて言われてしまうのだ。

ぼくは“無力”な自分がイヤだった。
いつも上の兄弟に護られる存在であり続けるのがイヤだった。

だから、ここ5年程は自分なりの理論と実践を通して、家のシステムを破壊させるために自分なりに働きかけ続けた。そしたら、安倍元首相の銃撃事件をきっかけとして、家のシステムが「両親の離婚」という象徴的な出来事と共に壊れ、刷新されるチャンスがきた。

「両親の離婚」という悲願を達成したぼくは、「自分の闘い」に勝利したはずのぼくは、だけど全然気持ちが晴れなかった。勝ったはずなのに、何も得るモノがなかった。それどころか、「家族成員」という「公共の福祉」のために勝ち取った「両親の離婚」は、原風景で「護りたい!」と思っていた母をして、「本当はお父さんと別れたくなかった」と言わしめてしまった。

ぼくは自分の優先する「公共の福祉」のために、本来護りたかったはずの母の意思を無碍にした。最大多数の幸福を謳い、その実現を妨害する者として成田空港建設予定地に住んでいた人々を追い出す所業への抵抗として起きた成田闘争になぞらえれば、ぼくは最大多数の幸福の実現のために少数者を排除した存在にすぎない。

ここら辺の縺れやねじれ、歪をどう扱えばよいのか、ぼくにはわからない。

混沌の「物語は、傷口の縁をなぞり、ただその周囲を語ってまわることしかできない。言葉は痛みの生々しさをほのめかすものの、傷はまさに身体のものとしてあり、その屈辱と不安と喪失感を言葉は決してとらえることができない」(アーサー・W・フランク 1995=2002 『傷ついた物語の語り手』ゆみる出版, 140)。


ぼくの言語化能力は、〇〇家(=我が家)から頂いた能力だと思っている。
以前兄(次男)が言っていた。

僕のファシリテーション能力は我が家で培われたものだと思っている。ひとつ間違えれば、誰かの命が落ちるかもしれない…。そんなスリリングな現場の実践を通して、自分はファシリテーション能力を磨いてきた。その経験が、いまの仕事に生きているし、お金を得るための能力になっている。

そんな、家の経験を糧として、我が家から頂いた能力を社会生活で活用していると話す兄の姿をカッコいいと思った。憧れた。自分もそんな風に語れるようになりたいと思った。それがここ3年位のことだろうか?

それ以降、ぼくも言語化能力は我が家で培った能力だと語っている。そして、それを活用してもっと多くの人つながりたい、社会で活躍していきたいのだと語るようになってきていた。

そんなことを言い出すようになって、「楽しく、幸せに」なんてキャッチフレーズをしきりに吹聴するようになった頃、ぼくは福岡に移住を果たした。

先輩ピアスタッフの発言に対してぼくは、懲りもせずこう繰り返していた。

「いまは、自分の能力や才能とか…、そういうものを強く信じるとか、信じて前に出るとかできないんですけど…。福岡の精神保健医療福祉の現場でおもしろおかしくやっていく中で、自然と元気になっていって、そうやってエネルギーや力を蓄えて、鳥みたいに広い世界に羽ばたきたいな~とか、魚みたいに泳ぎ回りたいな~って思ってます」

ぼくの停まった時間はどうすれば動き出すのだろう?

「今を生きられない停まった時間」を「問題」として認識し扱い、なんらかアプローチをした方がいいのか。あるいは、福岡でおもしろおかしく生活していくなかで自然と人生が楽しくなって、元気になっていけば、「停まった時間という問題」も雲散霧消してしまってはいないだろうか。

基本的にはぼくは、福岡という新天地での生活に期待している。
あるいは、ぼくは新天地での生活に多くを求めすぎているだろうか?

それでもぼくは懲りずに「探求の語り」を物語りたい。
「探求の物語(quest story)は、苦しみに真っ向から立ち向かおうとするものであ」(同上, 163)り、それは「病む人自身の視点から語られ、混沌を隅へと追いやってしまうのである」(同上, 164)のと同時に、「変容の過程を自覚的に語るものである」(同上, 167)。

「探求の物語の語り手は、自らの身体を痛みや醜さまでをも含めて、その感覚的な細部において記述する」、なぜなら探求の物語の語り手の目的は、自己物語を物語ることを通して、「他者に触れ、(中略)何がしかの影響を及ぼすことにある」(同上, 178)からである。

そうした探求の「物語は、伝達する身体が、今ある姿へと移り変わってきた自分自身を、これを通じてとらえ返すためのひとつの媒体となる」のと同時に、「その物語を通じて、身体は自己を他者へとさしだす。自己の姿を回想することと、自己をさしだすことは不可分である。それはいずれも、他者を補うことによってのみ可能となるのである」(同上, 179)。

探求の物語の語り手あるいは伝達する身体にしてみれば、「書くということが人格を測定することになり、その営みの中で再帰的にその人格が論証されてい」くのであり、そのような伝達する身体が語る探求の物語は、「互いに開かれたものであるがゆえに、(中略)決して自己の物語にとどまるものではなく、自己と他者の物語となる」(同上, 184)のである。

自己物語を開いていった先に待っている出会いをぼくは楽しみにしているし、期待している。開いていった先で構築される「自己と他者の物語」の中で、ぼくはぼく自身の自己イメージとぼくにポジティヴなイメージを抱いている人々との乖離を解消していきたいと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?