関東在住の大学院生が福岡移住に至る物語㉕

5月の福岡滞在で、いよいよ福岡移住を決心したぼくであったが、「関東を離れる」にあたって、ケジメをつけなくてはならない人たちがいた。

7年間お世話になった事業所の介護部門の代表であるところの上司と大学時代からの恩師、もとい東京のお父さんだ。

ぼくは大学院進学に伴い、人に常々以下のようなことを言っていた。

「自分は宗教などを信仰するのではなく、学問を信奉する道を選んだ」のだと。

3月以降、自分の闘いが終わり燃え尽きた後、冷静になったぼくは、ふと我に帰ってわかったことがあった。

「ぼくは…、ぼくは長年、学年を信奉するなどと宣っていたけども、その実態は恩師をはじめとする自立生活運動に入信していたのではないか…」と。

以前、大学院の副指導の先生にちょいと耳打ちされたことがある。
「やそら君は、恩師の先生との距離感とか関係性とか、今後うまく対処していかないとね」

ほかにも、自分が自立生活センターで働いていることを知っていた方にも、「もっといろんな事業所とか見て回ってもいいかもね」と言われていた。

ずっと、ぼんやりと頭の片隅にあった。

大学院では、恩師の薦める大学院の教員の下に就くことができた。
いままであまりに近く大きな影響力があった恩師と様々な面で距離がとれたことは、トータルで見て、双方や双方の関係性にとって良いものだったに違いないと思っていた。

しかし…、今回の「福岡への移住」とはすなわち、「恩師の庇護下/影響下」から離れることを意味している。言い換えればそれは、足を向けて寝れない程の恩のある恩師に対して、不義理を働くような行為でもあったのだ。

ぼくはとても気が重かった。

上司へのアポも気が重かった。
どうしようもない状態だったぼくのことを拾ってもらい、育ててもらった。
彼らがやっている運動のお手伝いをせめてしてから、去るつもりだった。
けど、自分の闘いが終わった瞬間から、ぼくはもう障害者運動の近くにいれない。気持ち悪い。ドロドロし過ぎていてめんどくさいと思ってしまった。

それでもなんとか、アポを取り、それぞれに会いに行くことになった。

会いに行くにあたりぼくは実家に帰ることにした。
実家で、父に正式に「福岡に移住します」と報告をした。

父は、父の会社の事務所が福岡にもあった20年程前、家族で福岡旅行に行った話をしきりにしてきた。そして、牧のうどんが美味しかったぞとか、博多の豚骨らーめんは麺が細くて合わなかったとか、教えてくれた。将来的にちゃんと稼げるように考えろよ、とかそういうことは言われた。

ぼくは6人兄弟の末っ子三男なので、しかも独身で学生という社会的身分なので、その限りではとても身軽だった。しがらみはあったけど、本来的にかなり自由度の高い人間のはずだった。

実家に泊まった翌日、ぼくは上司に挨拶に伺った。
上司は、相変わらず何を考えているのかよくわからない風体だったけど、ぼくの福岡移住を後押ししてくれた。

「もともとやそら君は、ずっとうちの事業所にいて、運動にかかわっていくのかっていうところも不透明なところあったからね。福岡への移住は聞いてる限り、ちゃんとやそら君の研究とかが評価されて、そのご縁でつながって呼ばれたということだから、そういう思わぬ縁やつながりが運動の観点からも案外、重要だったりするからとてもいいことだと思う」

ぼくは恐縮しきりだった。感謝をたくさん述べた。
いままで散々ご迷惑をおかけしました。今までありがとうございました。

小一時間ほど話し込んで、スッキリした気持ちだった。こういう別れのあいさつの際にも、応援してもらえるだけの人間になれたのだと、ぼくはなんだか嬉しかった。

実家に再び戻り、夕飯は姉や甥っ子・姪っ子も集まって手巻き寿司だった。人が集まってわいわいしながら食べる料理はたくさんあるが、ぼくは結構手巻き寿司が好きなような気がする。以前、人の家に招かれた時も「何が食べたい?」と聞かれて、手巻き寿司と答えていた。鍋よりも動きもあるし、色彩も豊かで、いろいろな味を楽しめる。

実家で久しぶりに食べたわいわいしながらの手巻き寿司は美味しかった。子どもたちの食べるのがヘタクソで、食べこぼしなどがあり、その掃除をさせられるの込みで、まあ楽しかったと言ってよい気がする。

翌日は、恩師の研究室で恩師と会う予定だった。
父はなんの気まぐれか、恩師と会う前に二人で早めのランチでステーキ食べようと誘ってきた。恩師の研究室の近くまで、車で送ってやるとも。

高級な肉を食べられる!断る理由もないので、ありがたく受け入れた。

そして父の運転する車の助手席にぼくは乗った。
うちは長らく5人乗りの車がスタンダードだった。
その頃には、長男と次男は家を出ていた。
それでも両親と三姉妹とぼくがいる。…そう、座席が足りないのである。

そうするとどうなるか。ぼくは座席と連続したタイプの車の荷台に乗り込み、警察車両などの近くを通る際には身を隠すというありさまだったのだ。その件について、言いたいことはいくらでもあるが、今話したいと思っていたのは、つまり、そんな家族単位で動く際は、どうあがいても自分は車内でいい座席に着ける可能性などなかったという事実についてだ。

だから自然と、「父と二人、父の運転する車の助手席に乗る」というシチュエーションは、父に連れられ伊豆や沖縄などに行った時のことをぼくに想起させる。そんな楽し気な思い出も手伝ってだろうか、ぼくは父との二人きりのドライブが結構好きだ。

関東を発つ前、父と二人でドライブしたのは、あれが最後だった。あんまり福岡の生活にばかりかまけていると、あれが最期になってしまうかもしれないのだな~ということを、肝に銘じておかなくてはなるまい。

うまい肉をご馳走になり、無事恩師の研究室まで送り届けてもらったぼくは、父と別れ、恩師の待つ研究室へと重い足を向かわせたのだった。

研究室に着くと恩師は珈琲を入れてくれ、大学近くでおいしいので有名な喫茶店のケーキを買っていてくれた。自分は、手土産を持っていこうとしたのだが、持ってくることができずすみませんと謝った。

それはいいよといいながら、恩師は続けた。
「なんか、近況報告をして回っているみたいだけど、何があったの?」

ぼくはこの1年弱の間にあったこと、自分の身に起きた変化などを話した。

すると、恩師はすかさず突っ込んできた。
「なんでそんなやそらさんが家庭のことで闘ってきたの?それじゃあまるで代理戦争じゃない。それが終わって腑抜けるというのもよくわからないな」

ほかにもいろいろ突っ込まれた。正直思わぬ反応に返事に窮した。それと同時にいくつかの指摘は、ぼくの核心を突かれた心地がしたのも事実だった。

いろいろあちらのペースで突っ込まれ続けていると、あっという間に30分程経っていた。向こうはそろそろ話題を切り替えるか、とこちらに助け舟を出してくれた。

「まあ、この話はこれ位にして…。それで、近況報告のほかにも報告したいことがあるって言ってたけど、なんだったかな?」

ぼくは、ついに来た…!と身構えた。

「はい、え~それがですね。自分の闘いが終わって、自立生活運動の近くにいるのがしんんどくなったのもあり、今後は、修論のご縁でつながった福岡市の精神保健医療福祉分野で働いて、研究テーマも修論のブラッシュアップという方向に切り替えようと思いまして、そのご報告に参りました」

ぼくの言に対するこの後の恩師からの切り返しは、ある面ではとても感情的だったように思う。いろいろ一方的に言われてしまった。

まずなんで福岡なのかよくわからない。
大学時代からの付き合いだけど、やそらさんは、いつもそうやって自分の都合でフィールドを去るよね。
相模原事件の被害者の介護入っていた間、修論のテーマが精神障害だったのに、博士で急に知的障害者福祉の研究をやろうとしたのもそもそもよくわからなかった。
あの現場を活用して、自分が目立とうとしたところあるんじゃないの?
やそらさんの研究を見ていると、いつも自分の能力の存在証明みたいな気分がついて回っているように感じる。俺にだってこれだけできるんだ!っていう自己顕示のようなものを感じる。
やそらさん僕にすごい恩を感じているようだけど、僕は別にあなたにそこまで何かをしたわけじゃないと思うんだけど。今の事業所だって、あなたが経済的に困ってそうだったから紹介しただけだよ。
あなたほど僕はあなたとの関係に思い入れはない。

ぼくはこれまた思わぬ攻勢にたじたじになった。
いや、その場では結構傷ついていたかもしれない。

ぼくにとって恩師は「東京のお父さん」という面もある人物だった。そう思っていたから、やはり、恩師の影響下を離れて、自立していこうとする自分のことを応援して欲しいという気持ちが心の奥にすごくあった。けど、とてもとても、そんな雰囲気ではなかった。

修士から博士への研究テーマを変えたのは、まず、学部卒業の折に先生から事業所の歴史とかをまとめてくれる人いないかな~と耳打ちされて、あれを宿題だと思ったのがはじまりで、そしたら、気づけばたまたま相模原事件の被害者の介護者になってしまって、それでぼくはその道の第一人者の弟子ですし、そこそこ名の知れた社会福祉学の大学の大学院生ですし、現場の人間ですし、俺がやるしかないだろう…!って、いままでの運動との関係の中で、そうやって自分を無理に駆り立てて、頑張ろうとしてしまったんです。

誰のせいにするわけでもないんですけど…。

その場で言い返せたのは、これくらいだった。。

本当は、本当は言おうと思っていたことがある。

恩師は重度知的障害・自閉の息子の父親だ。だから彼は闘い続けてきた。そんな息子さんがありのままで生きていけるよう、運動と理論とを通して闘ってきた。彼には親という当事者性がある。だから頑張れる。頑張らざるを得ない。絶対に譲れない、負けられない闘いが、そこにはある。

かたやぼくは、知的障害者分野では支援者に過ぎない。そこまでがんばる理由やモチベーションがなかった。「恩師と違って、自分にはこの分野で当事者性がないので頑張れませんでした。すみませんでした」

面談が終わってから、戸惑いがあった。
恩師はこんな人だったか?結構、福岡行きとか、自立生活運動から離れるとか恩師もチェックしてくれているであろうSNS上で匂わせていたのだけれど、感知していなかったのかしら。いろいろ考え、ずっと尊敬してロールモデルとしてきた恩師の攻撃に面食らい、今まで恩師から学んだり、薫陶を受けたと思っていたものはなんだったのだろう?と、しばらくは生きてきた地盤から足元がぐらつくような心地だった。

動揺したぼくは、例によって大いに塞ぎ込んだ。

しばらくして、落ち着いて少し考えられるようになった頃、ぼくは思い至った。恩師はやはり運動家で何よりも障害者の父なのだ。家庭を守る重圧がある。世間や役所と闘わなくてはならない。政府や厚労省とやりあわなくてはならない。そうやって、息子さんの生活を守ってきた。切り拓いてきた。

ぼくが今までいた自立生活運動は、以下のように喩えられることがある。

開かない扉を叩き続け、まれに少し開いた扉の隙間に一気呵成になだれ込み、権利をもぎ取る。けど本当にそれは稀で、基本的に負け続ける闘い。

ぼくはその現実を前にいつもしり込みしていた。
自分はそこまで闘えないし、前線で頑張り続けられる気がしなかった。

だから、扉を叩き続ける恩師の実践や研究の手伝いが少しでもしたくて、そんな戦場で闘う恩師の後ろの方から、せめて援護射撃がしたいと思っていた。だから、博論のテーマは知的障害福祉になっていったところがあった。

へたれなぼくは、闘い続けなくてはならない立場にある恩師を前に、戦場から去ると宣言してしまった。ぼくの中で、あの時の恩師の反応は、「お前はこの場から立ち去ることを選べていいよな!!」という糾弾の変奏だったのかなと今は、理解している。

ぼくから、「先生とは立場が違うので、先生のようにはこのフィールドで頑張り切れませんでした…」と言う前に、先にポジショントークをされてしまったような…、そんな切ない気分だった。

ぼくは恩師を完璧超人だと思っていた。
ぼくの考えなんてすべてお見通しだと思っていた。

けど、それは違った。
あの恩師の反応は、恩師も人であるということをぼくに強く印象付けた。

なにより、ぼくが恩師の下を離れて、一人立ちするなんて考えていなかったのかもしれない。けど、それこそ自立生活運動の中でも、親の偏愛を泣きながらでも土下座しながらでも蹴っ飛ばさないといけない場面があると語られているではないか。ぼくにとっては今がそうなんだよ。

ぼくの福岡移住という決断は、恩師がぼくに望む既定路線を蹴っ飛ばして、恩師の掌の上から飛び出す実践でもあったのかな、と最近は思っている。

ぼくは7月30日、関東を飛び立つ前、空港から恩師にメールを送った。
きっと、ぼくはまだ東京のお父さんから新天地に発つぼくへのエールを期待し続けている節がある。しかし、恩師からそのメールに対する返事はない。

ぼくなりに礼も義理も尽くした。
返事がないことを含めて、恩師の人間臭い一面を実感している気もする。

人間関係は一筋縄ではないかないし、当然、自分の思い通りになんかならない。だって、他者は自分のコントロール不能な存在だものね。

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