乖離との向き合い方について

以前ある人に、「川田さんも社会性ないよね」と言われた。

十年近く前に、当時お世話になっていたカウンセラーに「もうコミュ障とは言えないですよね」と言われた。

これらの言質から察するに、「コミュ力がある」=「社会性がある」では必ずしもないのだろうと思われる。

最近、大学時代の恩師に会って、自分で思っていた以上に「乖離」的な症状が自分強くて酷いのかもな、と思った。

きっとそもそも、「自分の中の複数性でもって客観性を担保する」という発想やアプローチ・考え方自体が、そうそう一般には理解されないのだろうな~とは思いつつ…。

いつからか、「乖離やトラウマティックな環境で培われた権力構造に敏感な感性を研究に活かすのだ!」と思っていた自分がいる。

「自分がメチャクチャでボロボロ」で「めんどくさい奴」という自覚はある。だから、精神保健医療福祉の専門性をバックボーンに強く持つ人たちとプライベートな場で相対すると、ともすれば、普段彼らがかかわっているクライアントや利用者よりよっぽど「めんどくさい奴」なのではないかと思われる自分自身を、彼らの前に現わしたり、差し出したりすることにとても躊躇してしまうし、緊張する。そしてなんだか申し訳なくなってしまう。からだが明らかに強張ってしまう。所在のなさに戸惑う…。

しかもぼくはその領域において、客観的に見れば、「当事者」で「専門家」で「研究者」だ。そんなややこしい存在、到底“理解”されるはずがない、という諦めが先行している。「川田八空」という存在自体が、ともすれば、この領域においてジュディス・バトラーがいったような意味での「攪乱」する存在になるのでは?とよく思うし、そのような話を人前でしたこともあるにはある。

けどそのような存在は、既存の秩序や規律に対する「攪乱」の意味や意義を理解する他者の存在なくしては、なんら意味がない。

そうした存在は、そのような他者の存在なくして、「攪乱する主体」足り得ないのではないだろうか?というのがぼくの実感だ。

やはり、いつぞやも書いたが、ぼくはどこかしらで、自分という存在を“狂気”だと思っている。

こんなに「メチャクチャでボロボロ」なのに、その様態や状態で感じたり、考えていたりすることをここまで言語化できるのは“おかしい”し、“常軌を逸している”のではないか、と。

そんな風に感じること自体が“自意識過剰”なのかもしれないし、あるいはぼくが感じているように「客観的に正しいこと」なのかもしれないし…。よくわからん。

なにより、「客観」程あてにならんこともないな…とは思いつつ。

けどきっと、こういうことも一人で頭で考えてグルグル考え込んでいても仕方がないし、出口もないので、“関係の中で”開いていくしかない。

「こんなめんどくさくて、グチャグチャでボロボロな奴ですみません~(笑)」と内心、誰よりも強く自分自身に対して悪態と嘲笑を向け、周囲に対しては土下座をしつつ、それでも、人間という社会的動物として、社会の中で生きて行けるならそれに越したことはない。

ぼくの実感としては、「一般的な他者と違うということは、日本社会で生きていく上では、コストなのだ」から。

ぼくはこの業界において、「当事者」なのか、「専門家」なのか、「研究者」なのか…、なんなのだろう…?この問いの答えは、結局、「ピアスタッフの雇用が日本において一番進んでいるという福岡市」においても、明確には浮かび上がってこなかった。。

それは周囲の受け止め方次第だし、ましてや「今後、自分がどう生きて行くか次第」で、自ずと定まっていく部分もきっとあるのだろうし…。あるいは、そのいずれにも収まりきらない「ポジショナリティ」を自分で確立するのかもしれないし…。

「神のみぞ知る」という奴なのかもしれないし、周囲が勝手に価値判断するのかもしれないし…。

よくわかんないけど、難しく考えずにぼくは生きたいように時には自分の直感を頼りに生きていこうと思う。

「僕の前では、自嘲は要らない」と、人から言われ、「乖離」が封じられると、「今、ここで」のふるまいを強く求められるのだな~…と、実感した修学旅行気分が抜けきらない残暑の、福島での夜でした。

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