④~ぼくは関東で反社会組織にいた?~

今日は福岡のお母さんに会ってきた。

福岡のお母さんとは適度な距離感と緊張感をもってお付き合いしている。

今日話していた時も、「あとはこの方とあの方をやそらさんに紹介して、経済的な面も問題なく働いていけそうだったら、私の『親としての役目』は終わりかしらって思ってます(笑)」とか言われた。

むしろ本当に、移住の時は「給付型奨学金もあるし余裕っす!」とか豪語しておきながら、後からお金が~!福岡でちゃんと働かなくちゃ~!と騒ぎ出したのにもお付き合いいただいて、あれこれ善後策を一緒に考えたりしてもらえるだけで本当にありがたいな~と。

今日は福岡のお母さんの事務所で13時から小一時間ほど、エビスビールの350㎖缶を片手に福岡のお母さん曰く、ミーティングをした。

ビールが彼女のカウンセリングルーム兼フリースクールの一角にある冷蔵庫からごそごそと持ち出されてきた時、彼女は言った。

「いつか、やそらさんの物語に出てくる私の説明書きに、私がアル中だって書かれるんじゃないかって思ってて…!(笑)」

ぼくはすかさず答えていた。

「新宿のNPOで路上生活者の支援をしていた東京のお母さんという人が、その気があったし、あの人の場合はしかも酷い時期は買い物依存気味で、毎月の収入よりも買い物の引き落としの方が多くて、買った新品のものを売りさばいて生活をまわすなんてことをしていた時期ありましたよ。あの人自身、息子が二人いて、上の人が重複障害で、いわゆるきょうだい児にあたる弟君も不登校だったりしたんでいろいろ苦労があったと思うんですけどね」

もっと身近に父の例もある。

「前にもお話したと思うんですけど、父が本当に毎日ビールを3ℓ飲んでたし、今でも休肝日をたまに設けるようになったんですけど、それでも毎日発泡酒を3ℓ飲み続けていると思うので…(アル中に対する基準は緩いです)」

父を見ていて思ったのは、昼間から仕事とかをほっぽり出して、飲まずにはいられないとかそういう人じゃなかったから、そういう意味では、いわゆるアルコール依存ではないよな~と認識している。まあ、代わり(?)に仕事を抜け出して、ボーっとするためにパチンコ打ちにいくような人ではあるのだが…。中卒のたたき上げで一代で年商10億の会社を興すような人の感性や感覚はぼくには本当によくわからない。

ここまで書いてきて、彼の口癖を思い出す。

「金を稼ぐのは簡単だ。人がやっていないことをやればいい」

彼は6人の子ども全員、子どもたちがみんなアホ()なのもあって、私立の大学や短大まで学費を払ってくれた。そんな父には頭が上がらないし、素直に尊敬している。いろいろロクデナシではあるんだけど、家族を食わせるためにと一念発起して、あれだけの会社を興したのはやっぱりすごい。

まあ、だから福岡のお母さんをぼくが直接的に「あの人はアル中だと思う」とか書くことは、決してないだろうなと思っている。いやたしかに、「仕事中、ことあるごとに脳裏を過るのはビールのことなんだ!」とか話している姿を見ていると、おや?と思うことはあるかもしれないけども…(笑)

それはそうと、今日はとても印象的な話がいくつか出ていた。
そのうちのひとつに、福岡のお母さんがぼくに関する夢を最近見たというようにメールでお話してくれていたのだけれど、その内容というのが

「やそらさんが実は反社会組織に追われている。大丈夫だというけど、そんな訳ないでしょと思って、近所の警察署まで一緒にいく。そこで終わり」

ぼくはそれをメールで頂いた時、えーなんのメタファーだろう?(笑)と思った。福岡のお母さんに対して後ろめたいことと言えば、給付型奨学金をふいにしたから、お金がやばいんや!ちゃんと働きたいんや!と後出しで騒いだ位のもので、ほかは特になかったので、「反社会組織に追われるやそら」というイメージが意味するところをつかみかねていたのだ。

今日、その彼女が見た夢について話した。

「あの夢なんだけど、やそらさんが関東にいた時に所属していた障害者団体に対するイメージだったんだなって思って。その夢を見てから、やそらさんから『関東在住の大学院生が福岡移住に至る物語』を読ませてもらったんだけど、やっぱり読めば読むほど、なんかやそらさんがいたところが怖くて。私も学生時代からそういう社会運動の団体にはかかわりがいくらかあったけど、やっぱり違うな~とか合わないな~って思って離れるようになっていたんだけど、やめる時とか怖かったもんね~」などなど

自分が所属していた障害者運動の団体が反社会組織か…(笑)実はぼく自身、自分が所属していた運動の実態について大学院のゼミなどで以下のように愚痴っていたことがあるので、それをその場でフィードバックした。

「いや、自分が所属している障害者運動の団体なんてね、その実態はヤクザな集団なんですよ!考えてもみてくださいよ。運動の最中に脳性麻痺の当事者が役人蹴り飛ばしたとかそういうエピソードが伝説として語り継がれている節あるし、自分の団体の系譜のはじまりにあたる当事者の方なんて、その人について質的調査した方の文献読めばわかるけど、マジでヤクザの親分ですよ!?人心掌握がうまくて、人を自分のいいようにコントロールする。介護者が自分の都合で介護を休もうとすれば、『俺を殺す気か!?』なんて詰めてくるような奴ですからね~。そういう人がぼくらみたいな家族関係とか社会関係で傷つき疲れた健常者を介護者としてオルグしていって、擬制家族を築いていく。で、そんな当事者と介護者が一緒になって、時に役人を蹴り飛ばしたりしながら、社会のあぶれ者としての当事者も介護者も、それでも彼らなりに気ままに生きられるように、制度を獲得していく、拡充させていく。そうやって行政からお金を取ってくる。ね?ヤクザな集団でしょ?」

かなり偏った見方ではあると自負はしているが、内部にいる人のなかでもこのぼくの見方に対して一面、「その通りだ」と認めざるを得ない部分が多分にあると思う。けど、ぼく自身、そんな運動の近くにあって救われた。

前までは、自分と同じように生きづら若者がこういう障害者運動につながって生き延びるみたいなそういう選択肢やパイプがあってもいいのかな?そのためにもそういう若者と障害者運動とをつなげるようなパイプ役になりたいなと思っていたところもある。けど、最近はそういう気持ちもない。

最近身近に、「仏教実践で救われた実感があるから、自分が今度は仏教をひろめて、必要な人にアクセスできるように仏教に恩返ししていきたいと考えている」と話す人が結構いるのだけど、そういう方々と自分との違いはなんなのかな~という点を考えたり、お話しできたらいいなと改めて思う。

途中、文脈が追いきれないところがあるのだが、福岡のお母さんの面識のある警察官の方がいるらしくて、その方に夢の話なんだけど、反社会組織に追われている人がいて、たいへんなんだけど、この場合は警察の何課に相談するのが正解なのだろうか?と相談した際、その警察官の方の返事がとにかく素敵だったのだときいた。曰く、

「警察は助けてください!と声を挙げて、救いを求めてきた人に対しては、必ず力になりますから安心してください!」とかなんとか…。

うん、たしかにカッコいい。
救われてこなかった実感の強いぼくの胸にも響くものがあった。

たかが人間ひとり、できることは限られているし、ほとんどないかもしれない。けど、そんな無力な人間でも、ある人がふとした時にかけた言葉が、ある人に強い影響を与えることがあるかもしれない。ある人を救うような言葉を発したり、紡いだりすることがあるかもしれない。

ぼくは基本的に自分のために文章を書いている。
『苦海浄土』の中牟礼道子さんも『キッチン』の吉本ばななも自分のために文章を書いたと言っていた。直感的に思うことがある。

それは、「自分自身のために書いたものが、実は、もっとも社会的にインパクトを与え得る」ということだ。偉大な哲学者や思想家、学者なんかも自分の知的探求を丁寧に言語化していったものが評価されていった、なんていう部分もあるように思う。

最初から周囲や社会へのインパクトは考えない。
自分のために紡いだり書いたりしたものが、どうしようもなく周囲に影響を与えていく。与えて行ってしまう。そういう言葉や物語を生きていくなかで、ぼくは書いて行きたいし、紡いでいきたいなと思う。

他者への影響は結果的に生じるものなのであり、作者には制御不能なのだ。

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