⑯~「楽しい」に貪欲であること~

久しぶりにnoteを書く時間を持てた。

作ろうと思えば、時間は作れるものだと思うけど、最近はそのための時間を作ろうと思えなかった。新しい環境で本格的に働き始めたり、親密な関係の人と頻繁に会ったり電話をしたり、今月行われる研修や講座の報告資料を作ったり考えたりしているうちに、随分と時間が経っていた。

今日は「楽しい」に貪欲であることをキーワードとして書いて行きたい。

ぼくはもともとかなりのめんどくさがり屋だ。疲れやすく、あまり無理をしたくないという面もある。それも学習された無気力と同根の問題なのかな?と思っているところはあるのだけれども。

そんなぼくだが、NさんといるとNさんの「楽しい」に貪欲な姿勢に触発されて一緒にとことん、さまざまなことを楽しんでいることに気づいた。

今までなら、ここら辺で疲れたから休憩したい!と思うようなタイミングでも、Nさんといると「楽しい」ことを最後まで一緒に楽しめる。

自分は疲れを感じ出すと、普段通りには自分が周囲に気を回せない、気を遣えないことを心配して内心あたふたし出す。そして、そんな疲れた自分が周囲の人に対して余計な言動をしてしまうのではないかと不安に駆られる。

実際、過去にそうした失敗をやらかしたという苦い思い出がある。これもある種のトラウマと呼べるのだろうな、と思う。

「楽しい」ことを前に、疲労を感じたぼくはブレーキをかけがちだった。

そんなぼくだが、疲れを感じてもNさんと共に、彼女に触発されて「楽しい」に貪欲であることができる。それはもちろん、彼女がとことん「楽しい」に貪欲であるのも関係しているが、それよりなにより、「疲れた状態のぼく」を彼女の前に曝していても、余計な言動をしてしまうのではないかといった不安をまったく感じないでいられることがとても大きい。

ぼくは彼女といると安心感を覚える。

一度、Nさんに尋ねたことがある。

「Nさんって、本当に楽しいことに貪欲だよね」

Nさんはこともなげに答えた。

「オタクってそういうものなんじゃないですか?」

20歳前後の時から思っていたことがある。

自分の熱中できるものや好きなものをトコトン追求できるオタクのエネルギーはすごい。自分にはあれだけ熱中できるものも好きなものもない。

「オタク」という存在は、しばしばぼくのコンプレックスを刺激した。

世間の人たちは「オタク」というと馬鹿にするけど、中には自分のようにあれほど好きになれるもの、熱中できるものがないコンプレックスを刺激されるから、それで、ルサンチマン的にネガキャンしてる人がいると思う。

以前から、よくそのように熱弁していた。

修士論文の特に歴史研究部分を書いていた時、精神障害分野における家族、本人、専門家といった諸アクターが、それぞれにどのような想いや思惑をもって動いていたかを概観した。ぼくはその時、「歴史」を目撃しながら、なおかつ脚本家として諸アクターたちの立ち居振る舞いを論文上で設定できる存在として、執筆していた時、どうしようもなく萌える自分を認識した。

ぼくは、人がそれぞれ置かされた社会的状況の中で、必死に生き抜き、より良く生きるために懸命に生きる姿にどうしようもなく心を打たれる。

そして、それぞれの社会的状況を生き抜くために、どうしても立場の違いのために衝突やすれ違いが生じてしまう現場を目撃し、哀しく切なくなった。

それは、ほんのちょっとのボタンの掛け違いのようにぼくには見えた。

もう少し、話し合いだったりわかりあうための場だったり、間に立って調整する人がいれば、衝突やすれ違いは避けられかもしれないのに…。

そうして起きる「不必要な争い」を目撃する度、ぼくは胸が痛んだ。

自分の“無力感”というコンプレックスを刺激された。

そんなことを書いたり考えたりしていく中で気づいたことがあった。

ぼくは、人々が泥臭く、人間臭く生き抜こうとする姿が好きだ。
そういう姿を目撃したり、記述したりしていると萌えてしまう。
そういう特殊な癖をもつ変態でありオタクなのだと、諦めの境地に至った。

以前、Nさんにぼくが好きなことを話したことがある。

「修論を書いていた時、歴史部分を書いていた時が特に楽しくて、いろんあ立場の人がそれぞれの想いや思惑をもって主張したり、対立したり、そういう姿を見たり、生き生きと記述したりしている時の高揚感が本当に楽しかったんだけど…。自分はそういう必死に生き抜く人の姿にどうしようもなく萌える変態であり、だいぶ特殊な癖をもつオタクなんだなって思ったな~…」

そんな、落胆気味に話すぼくにNさんはいつもの調子で返す。

「別に自分が好きなものを追求する上で、誰にも迷惑をかけていないんだったらそれで何も問題ないじゃないですか」

確かに、本当にその通りだ。けど願わくば、もっと多くの人が好むようなことを好きで楽しめる普通の人間になりたかったと思ってしまう自分がいる。

これからもNさんといろんな所に行ったり、いろいろなことを一緒に経験したりしていく中で、いままで触れたことも考えたこともなかったような「楽しい」を追求していけたらと思う。

以前Nさんと動物園に行った時、自称「嘘をつかないだけ」のNさんから、動物園を巡ってそろそろ出ましょうかというタイミングに、「動物園、楽しかったですね」と言われたことがある。

ぼくはその時、予想外の真っすぐなNさんからの嬉しい言葉に動揺した。

そういうNさんからの言葉、経験や思い出の積み重ねが、今までだったらぼくがブレーキを踏んでしまっていたタイミングや場所での滑らかな走行を可能にしてくれていっているような気がする。

身近な友人のひとりにNさんとの関係やNさんからの声かけの内容を共有した時、その友人から「すごいね~、カウンセリングかよ!(笑)やそらにとってはめっちゃくちゃ治療的なんじゃないの?」と煽られたことがある。

本当にそうだと思う。認めざるを得ない。

彼女と一緒にいる中で、今後もいろんな「楽しい」を発掘していきたいと思うし、自分自身でも仕事や研究の中で、改めて「楽しい」を発見・再発見していけたらと思う。

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