見出し画像

多神教は人間関係をパッケージ化して、他人が用意した人生を演じて、人生と命をドブに捨てる

多神教は、サタン側が作った罠である。
多神にしたら、神々を1つずつキャラ付けして、信者の方は考える必要がなくなるから、思考停止に陥る。
多神は考えなくていいのが、サタン側の罠である。
人々を思考停止にするのが、サタン側の罠である。
これは、肩書だけで他人を判断して、自分の頭で考えない悪癖に繋がる。
日本人が肩書だけで他人を判断するのは、多神教の悪癖だろう。

多神教になったから肩書主義になったのか。
肩書主義だから多神教にになったのか。
どちらなのかは判らない。
卵が先か、鶏が先か。

天の主の教えなら、自分の頭で考えて聖書を読む必要があるから、思考力が身に付く。
思考力があるから天の主へ立ち帰るのか。
天の主へ立ち帰るから思考力が身に付くのか。

天の主を騙った偽装キリスト教団のカルトを指して、キリスト教を思考停止だと決め付ける奴は、ただの思考停止である。
偽物を本物だと決め付けている時点で、本物と偽物の区別が付かない思考停止に陥っている。

肩書主義や多神教だと、本来の自分ではなく、肩書や年齢などの外的な要因で自分を演じるようになる。
本来の自分ではなく、他人から設定されたキャラ付けで演技をする人生になる。
キャラ付け人生になるから、最後の最後まで演技をするハメになって、天の主に立ち帰る事ができなくなる。

多神教の肩書主義だと、他人が設定した人生を演じる人生で終わってしまう。

他人に対しても肩書の演技を求めるようになる。
相手の本来の性格を見なくなる。
相手の本来の性格を見ないから、相手の性格を見破れなくなる。
自分の本来の性格を見てもらえなくなる。

多神教は、人間関係のパッケージ化とも言える。
パッケージとは「利用者が便利なようにまとめられた商品やサービス」の事である。
天の主に立ち帰った信者は、他人をそんなパッケージ扱いにしない。

先生と呼んではならないと聖書にある。

だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。

マタイ福音書 23章 8節から10節 新共同訳

多分、先生や師などで肩書を付けると、モノを考えない思考停止状態になるから、やめろと神が言っているのだろう。

聖書では、何度も「自分の道」「自分の十字架」という文言が出てくる。
これは、他人が用意した道を歩んではならないという戒めだろう。
狭い門は1人ずつしか入れないから、他人と一緒に入る事はできない。

肩書主義は、自分を客観的に判断できなくなる。
他人からの評価に依存するからだ。
しかも、他人たちの評価の中で、自分に好都合な評価しか受け入れなくなる。
あの知事とか犯罪タレントも、自分に都合が良い言葉しか受け入れないから、犯罪をしている癖に自分が正しいと思い上がる。傲慢になる。
こういう人間は、自分が多神教のカルト信者ではないと思い込むけど、実際は多神教の狂信者である。
自分で信じていると自称するかどうかが信者の条件ではなくて、その集団の教条の通りに生きているかどうかが信者の条件である。
口先だけで信者だと言えば信者に成れるような世界ではない。
カルト信者ではないと自称してもカルト信者ではない証拠にはならない。
たいていの人はカルトの生き方をしているからカルト信者である。

天の主に「従う」とは「自分の頭で考える」という意味だ。
カルトに「従う」のはどういう意味かは知らないけど、天の主に「従う」とは自分の頭で考える事だ。
人間社会の「従う」とはどういう意味か判らないけど、天の主に「従う」とは自分の頭で考える事だ。

自分の頭で考えた結果、聖書の通りにするのか、意図を組んで行うのか、額面の通りではなく真意まで汲み取るのか。
聖書には、井戸から水を汲み取るという話がよく出てくる。
別に水を飲むなら、雨でも滝でも人から買うでも、何でも良さそうなモノだけど、井戸から水を汲むのを何度も出す。

天の主の教えは、自分で聖書を読んで、実行するか自分で決定できる。
カルトは、イチイチ、何をするにしてもカルト教団の許可が必要になる。

神➝自分

神➝他人➝自分
  ⇧
 コイツ要るか? 邪魔、有害無益、百害あって一利なし

神➝カルト教団➝自分
    ⇧
 コイツ要るか? 邪魔、有害無益、百害あって一利なし

本人➝他人➝自分
   ⇧
 コイツ要るか?

世の中には何十億人の人間が存在するけど、神の声を聴くのに、イチイチ何十億人の許可を貰うつもりなのか。
誰か一人の意見を聞くのに、イチイチ何十億人の賛否を聞くのか。
今の何十億人の賛否は聞くのに、500年前1000年前の人たちの賛否は聞かないのは何故なのか。500年後1000年後の人たちの賛否に配慮しないのは何故なのか。
今の何十億人には聞かないのに、周りの数人・数十人の意見は聞くのは、何故なのか。
自分の判断や行動がおかしいと気付かないのか。

人の意見を聞くとか格好を付けている奴ほど、実際は自分に好都合な事を言う人間の言う事を利用するだけである。

自分で聖書を何回も読んで考えても、どうしても判らない場合は、人の聖書解釈を参考にしたらいい。
ただし、俺の聖書解釈を含めて誰の聖書解釈でも妄信してはいけない。
参考に留める。

正しい言葉を言えても、正しい人とは限らない。
正しい言葉を言うだけなら、正しい言葉を丸暗記したら誰でもできる。

実で判断しなさいと聖書に出てくる。

マタイによる福音書 7:16
あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
マタイによる福音書 12:33
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。

本人の性根は、本人の言葉ではなく、本人の行動で判断する。
パウロ本人の実はともかく、パウロカルトから出てくる実は悪いモノが多い。
パウロカルトは、聖書を丸暗記するから、正しい言葉を丸暗記して、そのまま言うから正しい言葉は言えるけど、ファリサイ派みたいに口先だけで実行が伴わない。
元々パウロがファリサイ派だから、パウロカルトも口先だけで実行が伴わない。

多分、パウロは、ファリサイ派の聖書解釈を丸暗記はできるけど、応用や文才がないから、ローマ軍へ入団とか、官僚や司祭や議員になれなかったから、人殺しをするようになったのだろう。
まあ、議員とかになれても、あの知事みたいに自己中で人殺しをするのは変わりがないと思うから、議員とかになれなくて良かっただろう。

パウロが正しい事を言えるのは、ファリサイ派の聖書解釈を丸暗記する能力があるからだ。
しかし、ファリサイ派の司祭や議員になれないのは、丸暗記しかできないからだ。
普通、市民権を持っていて、ユダヤ社会でトップ10に入るぐらいの実家の出身で、ファリサイ派の聖書解釈を丸暗記できるのに、ファリサイ派の司祭や議員になれないのは、相当、本人の性根に問題があるからだ。
例えば、日本でトップテンに入る権力と財力の実家に居るのに、日本の議員などになれないのは、本人の性根に問題があるからだ。パウロはそういうレベルで性根に問題がある。
今の日本で例えるなら、30歳にもなって、トップレベルの実家に生まれたのに、秘書の肩書も与えられず、プラプラして、ロクでもない連中と群れて、人殺しをして回っている生き方だからな。
どんな政治家の息子でも、父親の秘書にしてもらえるのに、それすらないレベルで性根がおかしい。もしくは、ローマ帝国の工作員として親から差し出されたのか。
しかも回心したと言いながら、ステファノの遺族に対して謝罪をしていないし、自分は賛成しただけだと言い逃れをする。
ステファノ殺害の場面で、パウロが最も権力を持っていたから、パウロが賛成するのは、パウロが実質的に殺害命令を下しているのと同じだ。

愛とは、天国へ入る方法を厳しく教え諭す事である。
偽装キリスト教団のカルトだと、愛を性交か情交か慣れ合いか何かと誤認させるようなデマを流している。
パウロ本人はともかく、パウロカルトの偽装キリスト教団のカトリックやプロテスタントや正教は、パウロの言った事すら捻じ曲げて、愛を捻じ曲げて人々を間違った方向へ洗脳する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?